リボンの剣士 第25話
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静まり返った踊り場。しかしそこには嘔吐物が広がり、なんとも嫌な臭いが満ち始めている。
自分で出したものとはいえ、これを処理しなければならないと思うと憂鬱だ。
「明日香……」
身体のあちこちから痛みの訴えが来る。立ち上がるのも一苦労だ。
こうなったのは、ついさっき起きた、明日香の暴走によるものである。
突然伝えられた信じがたい話。それに疑問を持ったら、明日香は激怒し、
俺を竹刀で滅多打ちにしたかと思うと、また急に我に返って、泣き出した。
なぜ、明日香はこんなことをしたのか。

今でこそ少し落ち着いてきたが、竹刀の一撃が来たときは、一瞬で恐怖に支配された。
立て続けに来る竹刀に、俺は怯え震えることしかできなかった。
俺に因縁を付けて来る奴相手に向けられていた剣が、自分に襲い掛かってくる。
怖かった。
身体に受ける痛みと、明日香までとうとう俺に愛想を尽かして、
敵になってしまったのかという衝撃と、二重の意味で。
ただ、最後に明日香は、それまでのが嘘のように消沈し、
怒りから一転して哀しみの一色に染まっていた。
元々、明日香は頭より手の方が早く、感情的で突っ走りやすい性格だ。
だが裏表は無く、根が明るい。
それが今は裏目に出た。笑うときは笑い、怒るときは怒る。
俺の態度が、明日香の怒りの引き金を引いた、ということは間違いなさそうだ。

……考えろ。頭を冷やせ。感情に振り回されるな。

明日香は感情が表に出しやすい分、冷静さにはやや欠ける。別にそれはそれでいい。
だからこそ俺は、明日香に欠けている部分を持っていなければならない。
人より長けているところを持っていたい、というのは、俺の男の意地だ。
――――薄っぺらであることは自覚している。

そもそも、明日香が言い出した大元の話、これについて、疑問が多い。
明日香は、木場のことを『男を喰い荒らす女』と言っていたが、俺にはそうと思える根拠が無い。
気まぐれで木場と買い物にいったあの日、俺が中学の同級生に絡まれたとき時、
木場は俺の味方をした。
相手は四人、こっちは俺だけ、と言う状況でだ。
奴らの一人をひっぱたくなど、非常に危険だった。
あれでもし乱闘にでもなったら――――情けない話だが、俺ではどうすることもできなかっただろう。
ただの『男を喰い荒らす女』なら、そのまま奴等の方にふらりと行ってしまっても不思議ではない。
そんな理由で、俺は明日香の話に頷けなかった。それで明日香は怒った。

”あたしの言うことが信じられないの!?”

……俺は明日香を信じていないわけじゃない。
明日香の得た情報が、素直に信じられなかったんだ。
おそらく明日香は、その信憑性の薄い話を真に受け、思い込んでしまったのだろう。
そうなると、情報の出所も気になる。木場に彼氏を盗られた人……か。

「……うぷ」
いい加減ゲ○の臭いがきつくなってきた。早く片付けよう。
近くの掃除道具入れからモップと雑巾を出す。まずは雑巾で拭い取り、その後、モップで丁寧に擦る。
擦っては洗い、を二度繰り返して、床は見た目は綺麗になった。
……見た目だけなのは、まだ臭いが残っているからである。
構うものか。どうせこんな所、滅多に人は来ないんだ。

道具を戻し、階段を下りた所で、ちょうど四階の廊下から来た人と鉢合わせした。
「伊星?」
互いに足が止まる。後ろで一つに束ねた黒髪が、少し跳ね上がったのを見た。
「……部長さんじゃないですか」
ここは四階。三年生のクラスがある階だ。しかし、今は放課後。部活の時間だ。
今日、剣道部は休みだったか?
「何故お前がここに居る」
当たり前に来る質問だが、話すと長くなりそうで、答え辛い。
別に敵意を感じるわけではないのだが、部長さんの声が、俺の神経を押し縮めてくる。
「部長さんこそ、どうしたんですか」
「今日は部長会議だったのでな」
ああ部長会議か。と思って部長さんの後ろの方を見たが、誰もいない。
出てきたという事は、会議が終わったのだろうが、部長さん以外の姿が見えないのは……?
ん、今、少し遠くの教室から先生が出てきて、こっちとは反対の方向に歩いていった。

「伊星、お前に聞きたいことがある」
「はい?」
部長さんに聞きたいことが、とは初めて言われる。
「最近、新城の様子がおかしいんだ」
「!!」
思わず肩が強張った。明日香の様子……俺がついさっき、おかしい状態を目の前で見て、
直後にその話か。
なんてタイミングだ。
「どのように、でしょうか」
「練習の時、己の感情を剥き出しにして剣を振ることが、矢鱈と多くなった」
部長さんの言葉から、言い知れぬ緊張感を引きずり出される。
「その己の感情というのが、主に怒り、憎しみ、憤り、そんなものばかりだ」
怒り、憎しみ、憤り……俗に言う、負の感情というやつだ。
さらにそれらは、さっき俺にぶつけて来たものと一致している……。
「練習以外のどこかで、何かあったのだろう」
その通りだと思う。思い起こせば、明日香の様子がおかしくなったのは、
しばらく前の負け試合からだ。
「伊星。お前は新城とは親しい仲だろう。何か、心当たりは無いか?」
「……」

明日香は、俺が『木場は男を喰い荒らす女』説を信じなかったことで怒りを露にした。
くどいようだが、俺が疑ったのは、明日香自身ではなく、明日香の聞いた話そのものの方だ。
もしかしたら、何者かが明日香に余計なことを吹き込んだ可能性がある。
「……無いか?」
「……」
部長さんと目を合わせられない。有るか、無いか、はっきり言えなかった。
「……そうか。いや、仕方のないことだ。だが、もし後になって心当たりが見つかったら、
その時は、新城の力に、なって貰えないだろうか」
……その言葉でひらめいた。光明を見た。
俺は、部長さんに、明日香の力になることを求められている。
明日香に助けられていた俺がすべき事とは、正にそれではないか。
「善処します」
「頼む。苦しくなったら、私に話せ」
部長さんの肩が下がる。俺のほうも、張り詰めた糸が、だいぶ緩んだ気がした。

明日香の帰っていく時の様子だと、怒りよりも哀しみの方が出ているだろう。
なに。『ついカッとなってやった。今は反省している』なら、それ以上責めるつもりはない。
先に返したのも、単に明日香の苦しそうな姿が見ていられなかったからだ。
あんな魂の抜けかけたような明日香は、俺の知っている明日香ではない。
明日香は、俺よりも、そこらの奴よりも、ずっと強いのだから。

「ところで伊星」
部長さんは懐を探って、一枚の紙を取り出した。
ポケットではなく懐に入れるあたりが、部長さんらしい。
「ちょうど都合よく、ここに入部希望の用紙があるのだが……」
「……はい?」
なんだ、悪寒がする。
「まねーじゃー や ら な い か 」

それは云わば、用意ドンの合図。
俺は即行で背を向け、階段を駆け降りた。
「あ、こら、待て!」
待てません。部長さん、それだけは勘弁を。

三階に降りて、すぐ側にあるトイレ(男子)に駆け込んだ。
入って行くところは、部長さんからは見えなかったはずだ。
しばらくここで、身を潜めることにした。
鏡を見ると、左目の下の辺りに痣ができているのがわかった。

……十五分くらい経っただろうか。そろそろ部長さんも諦めただろうと思い、トイレから出る。
ざっざっ。
自分の足音と揃った、もう一つの足音。
トイレの出入り口から二歩。そこで止まって横を見ると――。
「ひえぇぇぁぁぁっ!?」
なぜか屋聞がいた。
「な、な、何ですか伊星先輩! 急に出てくるなんて、何考えてんですか!」
俺を指差して、割と失礼なことを言ってくる。
急に出てくる……その台詞、俺がそのままお前に言いたいくらいなんだが。
ん? 男子トイレには俺一人しかいなかった。屋聞は全く同じ歩調で、少し離れた横から、
並列して出てきた……。
ん……んん?
「神出鬼没って、悪くないと思わないか」
「悪いですよ! 主に心臓に!」
自分のことは棚に上げて、唾を飛ばしかねない勢いで言う。
しかし、いきなり出てきただけなのに、何をそんなに焦っているのだろうか。
……そうだ。屋聞なら、何か知っているかもしれない。というか、
こいつが明日香に吹き込んだんじゃないか?
思いがけない遭遇だが、どちらかといえば、運がいいと言える。

「……はー、はー」
屋聞が落ち着くまで、黙って待つ。これから、少し話をしたくなった。
「ふー……。で、先輩、その目の下にある痣はどうしたんですか?」
深呼吸の後、声も普通に戻っていた。
「この前のバーゲンのとき、押し合いになって、どこぞのおばさんに肘鉄を喰らってな」
「はぁ、それは災難でしたね」
まさか、明日香に殴られてできた、とは言えない。
「それはそうと屋聞。ちょっと話があるんだが」
「……名前で呼ばれたのは初めてのような気がしますね……。 ああ話でしたね、聞きましょう。
自分は誰かと違って、話すことが無くてもちゃんと合わせてあげますから」
いちいち余計なことばかり言いやがる。だが、いつもの余裕振りは戻っているように見える。
俺は、明日香から聞いた話をそのまま伝えた。ただし、明日香から、と言う部分と、
俺の身に起こったことは伏せておく。

話し終わってみるとどうだろう。屋聞の目は丸くなり、口はだらしなく半開きになっている。
「どうした、土偶みたいな顔をして」
「どっ……土偶って、失礼ですね! お……ゴホン、人に向かって言う言葉ではないでしょう!」
またもや屋聞は慌てふためく。声が上ずって、高くなっている。
……この様子だと、明日香に吹き込んだのはこいつではなさそうだ。
それにしても、今日に限って屋聞は妙に取り乱しやすくなっているな。
「すまなかった。俺が聞きたいのは、その話が本当かどうか、なんだが」
「あ、謝るくらいなら最初から! ……あー、その話は初耳です。なので、本当かどうかは、
今ここではお答えできません」
「そうか」
要らんことはやるくせに、肝心なところで役に立たないな。
待てよ。今わからなくても、時間があればわかるんじゃないか?
「それなら一つ、その話の真偽について調べてくれないか?」
噂と言えば情報、情報と言えば新聞部だ。
「は? 何故自分が……。いえ、やります。調べて来ましょう」
はっきり言って駄目で元々、くらいの頼みだったのだが、屋聞は了承した。
初めは嫌そうな顔だったのが、ほんの少しの時間でやる気の顔に変わっていた。
本音ではやりたくないが、何か別の思惑があってやることにした、といった所か。
それでもいい。話の真偽がはっきりすれば、明日香の異変も、良くなるかもしれない。

「話はそれだけだ。じゃあな」
「あ、待って下さい」
背を向けた直後、足を踏み出す前に屋聞に止められた。
「何だ」
「今伺った話ですが、空白の部分が多いです」
「空白の部分?」
「はい。話を聞く限りでは、その木場先輩が奪ったという彼氏さんの心境について、
全く明かされていません」
「ん……」
確かにそうだ。彼氏を盗られた、というのは、あくまで盗られた彼女の見方だ。
「木場先輩と彼氏さんが別れた理由も不明です。木場先輩か捨てたとは
限らないんじゃないでしょうか」
「……」
なるほど、だんだん怪しくなってきた。彼氏がたどった経緯は、
まず、初めの彼女と付き合う→木場が現れる。
そして、”木場が彼氏を奪った”
ここ、彼氏から見れば、”木場に乗り換えた”と言うこともできるんじゃないか?
「その辺りは、疑う余地があります。それでは」
屋聞は、駆け足で下へ降りて行った。

……調査のほうは、屋聞に任せよう。俺は明日香を、悲痛に苦しむ明日香を何とかしなければ……。


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