歌わない雨 ACT7
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 芹との買い物を終え、部屋に戻ると先客が居た。ニヤニヤと笑っていた雪が僕を見ていた時点で
 予想はしていたが、いざ会うと気後れがする。
「おかえり、伸人。せっちんとのお出掛け、楽しかった?」
 緑が冷たい声で、しかし表情は楽しそうだという矛盾を孕んで笑いかけてくる。
 一緒に出掛けた、というのは朝一で芹の所に行ったのを雪に聞いたからなのだろう。
 そして帰りがこの時間なら推測は簡単だ。
 監視をしている訳じゃない、と自分に言い聞かせる。
「いきなりご挨拶だな」
「それよりも、まずはただいま、でしょ?」
「はい、ただいま」
 その一言で緑は笑みを強めた。
「で、何か用か?」
 緑はクスクスと笑いながら、
「用があるのはそっちじゃないの?」
「質問を質問で返すな」
 僕は警戒と苛立ちの混ざった声で言った。相手のペースに巻き込まれている、と自覚するが警戒心は
 どうしても取れない。
「怖い怖い、そうね。じゃあ私から」
 怖いのはこっちだ。一挙一動に何か裏があると思ってしまう。
「伸人が何か話があると思ったから来たの。無いなら帰るよ」
「待てよ」
 これもきっと作戦だ。相手の準備が整う前に奇襲を仕掛ける、緑の常闘手段。
「まわりくどいことは嫌いだから簡単に。今から交渉開始だ」
 一瞬。呆気に取られた表情をしたが、すぐに元に戻すと、
「良いわよ」
 こっちに乗ってきた。

 

「そっちの要求、と言えばこれまで通りにしろ、ってのとせっちんと争うな。
 あと、攻撃の全面停止と伸人の行動の黙認ってところ?」
 鋭い。
 それに、先に言うことで話術による膨らみの禁止をする。日本語の醍醐味である曖昧表現の停止を
 強制的に行ってくる。
 僕は煙草に火を点けると、緑を見た。僕なりのささやかな抵抗だ。
「煙草、止めた方が良いよ? 百害有って一利無し。煙草止めま響かず。
 打たないと響く。
「それよりも、要求はこんなもので良いの?」
 こんなもの、と言われた。緑にとっては些細な問題なのだろう。
 しかし、今のところこれ以上の要求は無い。むしろ、緑が自分で自分の首を絞めているようにさえ思える。
「…そんなところだ。そっちの要求は?」
 だが、言ってから後悔した。
 相手がこっちの要求を複数言うということは、相手も複数だということだ。
 だとすると、相手の要求は、
「こっちからも四つ」
 頭に浮かんでくるのは、激しい後悔。
 相手の言葉に肯定をしたからこれ以上の要求は出せないし、相手も同じ数なのでそれに対抗して
 増やすことも出来ない。
 しかも、逆に言えばこれ以上の要求をすると、相手の手札も増えることになる。

「一つ目、毎朝私にキスをする」
 いきなり辛い問題が出てきたが、一回肯定したら覆すことなど出来はしない。したら余計に泥沼だ。
「二つ目は、毎晩私とセックス」
 反論出来ない強い声で緑は続ける。
「三つ目、私が伸人を好きだという事を片時も忘れないで」
 芹にも言われた言葉だ。常に相手が意識の中に居るということは必要以上に意識をさせられる。
 今日の買い物で、それは嫌という程実感させられた。
「四つ目」
 緑は笑みを強くして、
「二年前、あの娘に関わった人。私、雪、伸人ちゃん、そしてあの娘。皆を許してあげて」
 心に冷たい痛みが走った。
 何故今ここでその事を言う。
 昨日カラオケで緑が互角と言ったが大嘘だ。芹以外の皆が知っている僕の初恋の記憶、それが一番の手札。
 忘れて良いのだろうか?
 許して良いという緑からの甘い誘いに、僕は言葉を失った。
 ただ、無言で頷く。
「契約は成立ね。そっちが守る限り、私もけして破らない。セックスは、今日は疲れているみたいだから
 勘弁してあげる」
 そう言うと、緑は部屋を出ていった。
 『悪役VS策士』は、僕の、完敗だった。


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