歌わない雨 ACT1
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「I singing so like that rain. He don't like…」
 歌っている途中で右手に走る痛みに、眉をしかめて声が途切れた。
 今日はここまでにしようと立ち上がり、煙草に火を点けた。リハビリのお陰か、
 今では難無く動くようになった右手だが、今でも珠に痛みが走る。
 医者が言うには物理的なものではなく、心の問題なのだそうだ。
「とは言ってもなぁ」
 人は簡単に、そうそう心を切り替えられるもんじゃないと僕は思う。
 僕は右手に走る痛みに眉を寄せたまま、痛みの原因を思い出す。
 あれは一年前に遡る。

 

「思ってたよりもつまらなかったね」
「馬ッ鹿、お前、最高に泣けただろうが」
「あー…、伸人ちゃん、王道好きだからね」
 幼馴染みの緑と一緒に映画館に行った帰り、いつものような下らない話。
 そこでいつも通りに終るはずだったのだが、そこに突然、
「ウアァー」

 甲高い音と共に割って入る声がした。半射的にそちらに目を向け、
「ウアァー」
 僕も相手と同じ様な悲鳴をあげた。急な坂道を自転車に乗ったクラスメイトが降りてくる。
 部活帰りなのか高校の制服を着ている。付け加えるなら、
 サドルに座るときにきちんとスカートを織織り込まなかったのだろう。
 翻るチェックの布地の下に見えるのは、
「黒!? 凄ェ」
 そこからの自分の行動は、自分でも感心する。
「え? 黒? 何?」と混乱する緑を突き飛ばして自転車を回避させたあと、
 正面の壁に激突しないように自転車を押さえ込んだ。
 放心しているクラスメイトが何か言っていたが気にせずそこで別れつつ、
 緑に保険証を持ってくるよう頼み、自分は病院へと向かった。

「そして複雑骨折、一年とは随分短いもんだ」
 煙草の煙を吐き出して空を見上げると、不意に背中に鈍い衝撃が来た。
「よぉ」
「おぅ」
 振り替えるとそこに居たのは、腰まで届くウェーブのかかった長い髪。鋭い顔立ちの、背の低い少女。
「何一人でブツクサ言ってるんだ? 只でさえお前は凶悪な顔付きをしてるんだから、
 子供が見たら泣き出すぞ」
 軽口を叩きながら投げてきた缶コーヒーを取ろうとして、
「あ」
 取逃し、落とした。
 拾おうとして視界に入ってきたのは、悲しそうな彼女の表情。
「気にするな、誰も悪くない」
 僕は敢えて彼女に聞こえないように声を小さくして呟き、再び空を見上げた。

 伸人を探して辿り着いた先は、やはりいつもの公園だった。特に何をしたいと思ったわけではなく、
 ただ何と無く隣に居たいと思っただけだ。
 近くの自販機で買った缶コーヒーを手に近付くと、普段通りの景色。
 いつもの指定席で煙草を吸いながら、いつもの歌を歌っている。
 照れ隠しと言う訳ではないが、軽く背中を蹴るとやはりいつもの眠そうな調子で挨拶をしてきた。
 変化の無いこの様子に、私は毎回安堵を覚える。
 彼が毎回作ってくれる、意味の無い現実逃避だと分かっていても、だ。

 そして、私は敢えてそれに甘える。強い彼と違って、私は弱いから。
 だからいつも通りに軽い調子で缶を投げて、しかし一瞬で幻想が壊れた。
「あ」
 という彼の一言と共に、握れなかった缶が地面に落ちる。
 それだけならば、日常の中にそれなりにある風景。
 しかし、これの原因が私自信であることが頭の中をよぎり、
 表情はそれのせいで相当に情けない状態になっていたらしい。
 彼は無言で隣に座るよう促すと、黙って煙草を吸いながら夜空を見上げた。
「………」
 そして敢えて私に聞こえないように、フォローの言葉を言う。
 暫くは、無言。
 快い空気を味わいながら、彼の優しさに浸る。今暫くは、この空気は私のものだ。
 そして改めて思う。
 私は彼が好きだ。


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