沃野 Act.5
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 言っちゃいました、言っちゃいました。
 先輩に、好き──って。
 言っちゃいました!
「時間がありませんし、返事はまた後でお願いしますね」
 と余裕ぶり、澄ました顔でお辞儀して出てきましたけど。
 心臓はもうバックバク。すぐにも破裂してしまいそうな有り様です。
 顔が熱くなってるのも分かります。冷めろ〜、冷めろ〜、と念じても無理です。冷めません。
 少しでも興奮を紛らわせようと深呼吸したり髪をいじってみたりしました。
 ふう、と物憂げに溜息をついて窓の外を眺めたりもしてみます。落ち着いたふりではありますけど、
 ちっとも落ち着いていないのは震える肩からして明らかです。息もまだちょっと荒い。
 こんなに緊張したのは入学以来初めてでしょう。
 殿方に交際の申し込みをすること自体が初めてですから仕方ないと言えば仕方ありません。
 いくら私が周りとは趣を異にする外見だからって、心の中身は高校生。
 いえ恋愛経験が不足気味というかゼロなことを勘案すれば中学生レベルかもしれません。
 念願の告白……前夜に鏡の前でこれでもかと練習してはみましたものの、やはり本番はキツいです。
 いっそナシにして辞書だけ借りて帰ればいい、と弱気の虫を跳ね返すのに難儀しました。
 そもそも辞書なんて口実に過ぎないんです。本当は持ってます。告白のために乗り込んだんです。
 あそこで引き下がったりしたら自分の情けなさに涙を流すところでした。
 まずは第一段階が終了ってところでしょうか。いかにも人の気を知らない、鈍そうな先輩に向かって
 私の想いを吐露することができただけでも上出来。これであの人は嫌でも私が気になりますよね。
 先輩に決まった人がいる、という噂は会って間もない頃から耳にしていました。
 最初は「ふーん、あんな男に」と比較的無関心でした。色恋沙汰にはまだ興味がなかったから。
 無関心でいられなくなってからは、「決まった人」が誰なのか気になり出しました。
 噂は有名だったので、友達にちょっと聞いてみただけで相手の方が分かりました。
 先輩とはクラスが違う、三組の綾瀬胡桃さん。長くて黒い艶やかな髪、すらりと伸びた背。
 弓道部という所属に負う凛とした立ち振る舞いの中に、活発で朗らかな性格が垣間見えます。
 発育も大変によろしく、凹凸のお手本みたいな体は男女問わず注目の的でした。
 友達に「憧れる」と述べる子もいましたけど、私は羨望より妬みが勝ちました。
 いつになってもずっと「外人」扱いの見た目と、一向に成長しない体。
「外人なのになんで成長が遅いの?」みたいな眼差しを受けて何度傷ついたことか。
 私服で歩いてるとき「あの子、小六くらいかな?」「外人だから上に見えるんだって。本当は十歳未満だろ」
 と無茶苦茶なこと言われました。
 誰も彼もが子供っぽく見えるクラスメートの男子に「子供みたいだ」と思われる屈辱がどれほどか、
 ちょっと表現し切れないものがあります。
 そんな体験を一度もしないでチヤホヤされてきただろう綾瀬先輩。
 よりによってそんな人がなんで彼のそばにいるの? と二重の妬ましさに苦しみました。
 私自身「あんな男」と思った時期があるように、彼は取り立てて目立つ生徒ではありません。
 運動も成績もパッとせず、見た目も性格も格好いいわけじゃなく、純粋な注目度は低い。綾瀬先輩を
 語るついでに「ヘタレ」呼ばわりされるのが関の山。あたかも料理に添えられたパセリです。
 なのに綾瀬先輩は彼に付きっ切りで、昼食も一緒、登下校も一緒です。「はい、あ〜ん」をやったり
 おてて繋いで歩いたりしてるんですからもうバカップルそのもの。
 そんな光景を他人事と切り捨てることができずに悩み、胸を苦しませるようになったのは。

 私が、パセリの味に目覚めてしまったからです。

 大して劇的な切欠はありませんでした。なんてことのない積み重ねで、私は恋に落ちていました。
 彼は図書館によく来ました。うちの高校は併設されている図書館の規模がそこそこ大きく、当番は
 組まれていますが基本的に図書委員が総出になります。おかげで私も目にする機会が何度もあり、
 自然と話しかけられる関係になりました。
 私は殿方に対する不審が根強かった。彼らは、見下すことをやけに好むから。
 「可愛い」「綺麗」という言葉は同性の友達からも掛けられますし、
 愛玩動物を見るような意識が感じられるとはいえ誉め言葉として受け取ることに抵抗はありません。
 しかしそこに珍獣か何かを調教しようとするような不快な好奇心を覗かせるとあっては、
 到底応える気になれません。
 どうも私は相手の征服欲を無闇に煽るところがあるらしいです。
 金髪で碧眼という未だに日本人のコンプレックスを刺激してやまない要素に加えて、
 体が未成熟で幼く見えることがいけないようです。
 私だって、別に恋愛に興味がないわけではありません。
 ただ、「したい」と思える人がいなかった。
 だからもちろん、先輩に対しても最初は好感を抱いておりませんでした。
 警戒心が解けず、随分と突慳貪な受け答えをしてしまった記憶があります。
 ここで怒ったり萎縮したりする人もいますけど、先輩は軽く受け流していました。
 ひょっとして鈍い人なんだろうか、って確かめる意味で何度も露骨に冷ややかな態度を取ってみました。
 それでもめげません。どころか、高いところにある本を取ってくれたりするとき、
 恩着せがましくもわざとらしくもない雰囲気で向き合ってくれます。
 男の子へお礼を言うことに慣れていない私の小さな声にも気にした風がなかった。
 そこで上向き修正が加わったのは確かです。
 ふさふさした金髪や青い瞳という、私の一部分に過ぎない場所ばかりを注目せず、
 ありきたりの友達として接してくれるような異性を求めていた……って想いが漠然とありましたから。
 むしろ、あったはずなのに、です。
 不思議なことに、彼が自然な優しさや思いやり、時にからかいを示すたび、私の身は硬くなりました。
 体を覆う不可視の殻──好奇の視線や不躾な言葉から守る、精神的な防御。
 対人関係においてそれをまとう傾向にある私ですが、彼と会話するたびに殻の存在を意識し、
「もっと厚くしなければ」と思うのです。いささか過剰なくらいに。
 そうしないと、私の「中身」が溢れ出してきて、こぼれてしまうような……そんな気がしました。
 なんだかとても息が苦しくなりました。
 いっそ先輩なんて無視してしまえばいい、と思ったこともあります。黙殺してしまえば、苦しまない。
 けれど、話しかけられるたびに反応せずにはいられない自分がいました。
 どんなに殻を強固にしても、無視することはできなかった。
 むしろ無視したくなかったからこそ、殻を補強したのかもしれません。闇雲に、頑なに。
 そして。綾瀬先輩という非の打ち所がない人が彼の傍らに寄り添っている瞬間を目にしたとき。
 私は諦めることにしました。
 彼を、ではありません。殻を保持し続けることを、です。
 たぶん、彼は私の築いている殻に気づいているはずです。
 決してその殻を壊そうとはしません。殻ごとの私を見てくれているのだと思います。
 でも、私は。
 楽しげに笑って彼の手を引っ張る綾瀬先輩を見て。
 どうしてもあの位置に立ちたい、と願ってしまったんです。
 ──話しかけられるばかりで、身を硬くして自分から喋りかける言葉を持たない私が嫌でした。
 ──廊下で会っても、挨拶程度しか交わせずに通り過ぎるだけの関係が嫌でした。
 私はあの人のことをよく知りません。
 だからこそ。もっと知るために殻を脱ぎ去ろうと決心しました。
 それは、あの人なしでは生きていけないような女になるってことかもしれないけれど。
 剥き出しの私を見て欲しくなったのだから、どうしようもありません。

 綾瀬胡桃が別に先輩と付き合っているわけじゃないことを先輩本人の口から聞いたとき、
 思わず小躍りしたくなる気分を抑え込むのに苦労しました。
 胡桃は幼馴染みだよ、別に彼女ってわけじゃない──
 図書館で他の人にそう言っているのを耳にした私は、いよいよ自信を持ったわけです。
 たとえ先輩と綾瀬胡桃が本当に男女交際しているのだとしても、玉砕する覚悟ではいましたが。

 そんなこんなで昼休みになりました。
 愛しの……と言い切れるほどの自信はまだありませんが、ともあれ先輩の教室へ急行します。
 コンパスの短い足が今はもどかしいばかり。
「き、来たぞ! 魔性の下級生が!」
 入って行くと、私は注目の的になりました。
「おいおい、すっげぇ自信満々だぜ、あの目つき。まるで映画の子役みてぇだ」
「こんなちっちゃい子が男を寝取るだなんて世も末だなぁ」
「洋平のバカタレがモテる時点で世の中終わってるよ……」
 なんでも告白した休憩時間以来ずっと私の話題で持ち切りだったそうで。
 「略奪愛の旗手」とか「いたいけな泥棒猫」とか、大層な名前までいくつも得てしまいました。
 略奪も何も……先輩はフリーのはずなのに。まあ、先輩以外の発言は特に気になりません。
「しかし、相手が三組の綾瀬さんよりも格下なら話にならなかったところだが……」
「うむ、格上格下以前にタイプからして違う。この勝負、読み切れん!」
 うるさい外野はシカトしましょう。
 ここは脇目も振らずに駆け寄るのが恋する乙女の嗜みです。
 たったっと小走り。先輩はぐったりした感じで椅子に座ってます。どうやらかなり詰問された様子。
「ええっと、で、さ。荒木。悪いけど俺は……」
「先輩!」
 いきなり断りの言葉から始めようとした口を慌てて塞ぎます。出鼻を挫かれるのは最悪のパターンです。
 あの女を引っ張り出すまで間を持たせないと。
「えっ、何?」
 大声に反射的な質問を返す先輩。戸惑っているその顔に向け、

「だ──抱いてください」

 ぶほわぁっ、って壮絶な音とともにごはんを吐き出すクラスのみなさん。汚いなぁ。
「……は……?」
 先輩まで土偶のような顔をしています。少し予想外です。
 いくら衆人環視だからって「抱き締めてほしい」とお願いするだけでここまでびっくりするなんて。
 緊張で少し言葉は違ったかもしれませんがニュアンスはちゃんと伝わったはずですよね?
「……駄目ですか?」
「そりゃ……駄目だろう……普通……」
 驚きすぎたのか、他人事みたいな口振りです。
「じゃあ、いいです。代わりに手を握らせてください」
 大きな要求を突きつけて拒ませた後に譲歩して小さな要求を行うと、相手はついそれに応じてしまう、
 いわゆる「ドア・イン・ザ・フェイス」の心理テクニックを活かした戦法です。我ながら完璧。
 言われるままに差し出してきた先輩の手をはっしと両手で掴み、挟み込むように握ります。
 伝わり合う素肌の感触……ふふ、ちょっとだけ親密度アーップ。
 あの女もそろそろ来る頃合ですね。

 さあ──勝ちに行きましょう。


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