沃野 Act.3
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「………ッッ!!」
 顔面神経が狂奔しそうになるのを必死になって堪えようとした。
 堪え切れなかった。
「ぶはっ!」
 隣の梓は飲んでいたペットボトル緑茶を噴き出した。
「えほっ、げほっ……び、びっくりさせるなよ胡桃! 急に物凄ぇ顔しやがって……!」
「ご、ごめんね……」
 謝りながら、平静を取り戻そうとする。深呼吸。叫びたくなる気持ちを押し留め、努めて冷静な思考を試みる。
 ……無理だ。どうしても心が波打つ。よーくんのことになると、わたしは平常心でいられなくなる。
「いったいどうしたってぇのよ……ほらそこ、本が破れてるじゃない」
 指摘されて見ると、確かに手に持っていた本が無惨に裂けていた。
 無意識の力で引き裂いてしまったらしい。まったく記憶になかった。
 ああ、どうしよう、図書館のなのに。弁償かな?
 ──いや。それは後回し。今はよーくんのことだ。さっき視たことを思い返す。苛立ちに手が震える。
 わたしはいつも通り、よーくんを「視」ていた。彼は周りの男子との話にも飽きたようで、
 椅子に座ってぼんやり黒板を眺めていた。
 そこに、あの、金髪で、ちっちゃくて、いかにも「可愛い」と言われ慣れているようなあの子が来て……
 ああ。駄目。思い出しただけで目の前が真っ赤になる。呼吸が乱れる。
 嫉妬深いのはいけないことだと思うけど、よーくんのそばに女が寄るとカッと血が沸き立つのだ。
 しかもあの子。馴れ馴れしく、よーくんと見詰め合って、おまけに吐いた言葉が、
 ──好きです──
 ──付き合って、ください──
 わたしが、どれだけ、言おうと思って、言えなくて、よーくんって鈍感だから仕方ないよねと
 自分で慰めながらなかなか眠れない夜に何度も何度も目蓋の裏で予行演習してうん、明日こそは、
 と誓って興奮したせいで余計に眠れなくなった心を鎮めるため隣のうちのよーくんの寝顔を覗き視て
 ようやく安心して寝付いて結局翌日には断られるのが怖くて言い出せない、ってことを繰り返してきた
 セリフなのに、あの子はいともあっさりと言ってしまった。
 悔しい、そして、それ以上に憎い。熱さを通り越して寒気すら覚える憎悪が腸から突き上げてくる。
 荒木麻耶──知っている。目立つ子だし、何より彼女はよーくんと接触したことがある。
 わたしが知っているだけでも三度ほど。もっとあるのかもしれない。
 よーくんが図書館にいるとき、わたしは弓道場にいて、つい監視が疎かになってしまう。
 その隙をついて、こっそり会っていたのかもしれない。だからあんな言葉を。
 許せない。
 許せるわけ、ないよ。
 今すぐにでも立ち上がろうとしたわたしを、休憩時間の終わりを告げる鐘が遮った。
 忌々しいウェストミンスターチャイム。咄嗟に舌打ちしたくなった。
 けど、まぁ、いい。視れば、あの子も鐘の音に従って教室を出て行くところだった。
 次の授業が終わって、昼休みに入るまではお互いおとなしくしなきゃね。
 でもこんな調子だととても授業に集中できそうにない。ああ、よーくんも途方に暮れた顔してる……
「──おーい、また遠くを見ちゃって、どうしたの」
「あ、えっと、なんでもないよ」
「なんでもないってなぁ……確かに胡桃はしょっちゅう遠い目をしてボーッとしてるけどさぁ」
 ぶつぶつ言ってくる梓に生返事をしながら、わたしはこれからどうすべきか考えていた。

 千里眼っていうのかな。遠くを見通す、超能力みたいなの。
 わたしは生まれつきそれを持っている。使いこなせるようになったのは小学生になってからだけど。
 昔から「胡桃は目がいい」とよく驚かれた。どんなに遠くにあるものでも、角度が悪くなければ
 米粒程度の文字さえ読み取ることができた。「アフリカの人は視力が10.0」とかいう話も聞いたことが
 あるけど、わたしの視力は数字で表せばどのくらいだろう。4.5km以上先、地平線の彼方でも視ることができた。
 それってもう、視力がいいとかそういう問題ではない気がする。
 よーくんもわたしの目の良さは知っているし、失せ物探しが得意なのも覚えているだろう。
 けど、「眼」のことまで話すと気持ち悪いって思われてしまうような気がして、失せ物探しについては
「なんとなく分かる」としか言っていない。

 わたしの「眼」は胸のあたりにある。
 本当はどうなのか知らないけど、使っているときはそのあたりに熱を持つ。
 「眼」で視るときに目を閉じる必要はない。両目を開けたままで遠くを見通せる。
 ただ、集中力はどちらか一方に傾いてしまうので、両方の視覚を同時に処理するのは不可能だ。
 セカンドサイトに意識が行っているときは五体の感覚が希薄になるし、体に意識を戻そうとすると
「眼」は閉じてしまう。便利だけど、一種の余所見なので気をつけないと結構危ない。
 その「眼」で、暇があればいつだってよーくんを視てきた。
 よーくんと初めて会った頃。わたしは特別な能力があることを自慢にしていて、他人を見下していた。
 実に嫌な子だった。「はんッ、ムシケラどもめ」系オーラを周囲に放つ漫画みたいな悪役。
 前の学校ではかなり威張り散らしていたし、よーくんと会ったときも生意気なことを言った。
 思い出すと顔が赤くなったり青くなったりする。身悶えを禁じえない。過去に返って自分を叱りたい。
 でも、よーくんはそんなわたしを嫌ったりしなかった。
 分かっているのかいないのか、はっきりしない口振りで応じて、どんなに嘲っても柳に風、糠に釘、
 暖簾に腕押しだった。ムキになって言い返してきたところを誘導し、「眼」の力で屈服させ、従わせる
 ……そんな計画を思い描いていたわたしは、まったく手ごたえがないよーくんの態度に苛立った。
 なんで、自分がそれほどよーくんに固執するのか。
 大きな疑問からあえて目を逸らしながら、挑むような口調で突っかかっていた毎日。
 遂に我慢ができなくなり、癇癪を起こして叫んだ。
 ──洋平なんか、嫌い──!
 すると、笑われた。
「胡桃は面白い嘘をつくね」
 って。何一つ疑わない、確信に満ちた声で。
 そう。本当に嫌いなら、顔を真っ赤にして、面と向かって、そんなことは言わない。
 ようやく悟った。ムキになっていたのはわたしだって。
 気を引きたくて。構ってもらいたくて。それを認めるのが恥ずかしいから生意気な口を利いて。
 そこにいたのは特別でもなんでもない、ただ素直になれないだけの女の子だった。
 素直になることが恥ずかしいと思って、隣の家にいる男の子と単に仲良くしたい気持ちを隠したがっていた。
 そんなの、とっくに見抜かれていたんだ──
 遠くを見通す「眼」を自慢にしていた自分が不甲斐なかった。大事なものを見落としていたんだ。
 だから、お詫びもかねて、一生懸命つくった料理を、まだ温かいうちに食べてもらおうと運んだ。
「お、お裾分けだからねっ。ただ、その、つくりすぎちゃっただけ……なんだから……」
 分かっていてもまだ素直になれないでいた自分を持て余しながら。

 以降はずっとよーくんを視ながら成長してきた。
 わたしの「眼」は単に遠くを視るばかりじゃなくて、壁とか屋根とかの障害物も通り越して視る、
 言わば透視能力も含まれていた。
 プライベートを侵害するいけないことだって分かっていたけど、何度もよーくんの部屋を覗き視た。
 自室で誰の目も気にせずに寛いでいるよーくんの姿にはドキドキした。
 休日も、よーくんがどこにいるか、周囲を360°精査して探した。いつもすぐに視つかった。
 わたしが失せ物探しが得意なのは、視ようと思うものを、方角さえ合えばほぼ自動的に発見できるから。
 携帯なんかで連絡を取り合う必要もなく、町にいるよーくんを視てはそこを目指して走ったものだ。
 一刻も早く会いたくて──
 「眼」に集中してすぎて転んだり、電柱にぶつかったり、側溝にはまったりすることも一度や二度じゃ
なかった。

 部屋で着替えるよーくんを視て興奮するようになったのはいつ頃からだったかな……
 前はそういう場面に出くわすたび顔を赤らめて「眼」を逸らしていたものだったけど、友達を通じて
 性の知識を吸収するたび、よーくんへの肉体的関心が深まってしまった。
 だからって正面切って「裸見せて」と頼むのは恥ずかしすぎる。
 いくらなんでもそこまで素直になる勇気はなかった。
 せいぜいが、ふざけているように見せかけて体をすり寄せるくらい。その程度で限界だった。
 そこで、よーくんと一緒に下校して玄関先で別れるや、脱兎の如く階段をのぼり、制服を脱ぐ暇も
 惜しんでよーくんの部屋がある方角に張り付き、わたしより少し遅れて上がってきた彼が物憂げに
 溜息をつきながら気だるく着替える一部始終を「眼」に焼きつけた。
 さすがに下着までは着替えなかったけど、それはお風呂の時間を狙うことで解決した。
 わたしの「眼」はいかなる距離も無にするけど、角度は常に一定だ。
 ベストショットを得るためのポイントを求めて夕方に家をうろうろする娘を母も父も不審がって
 いたけれど、「難しい年頃だから……」と理由になっていない理由で無理に納得していた。
 よーくんと会ったのは十歳のときだから、揃ってお風呂に入ったりしたことはもちろん一度もない。
 初めて視るよーくんの裸……!
 緊張するやら興奮するやら、感極まるあまりにガクガクと震えながら涎を垂らす娘を見て父も母も
「難しい年頃だから……」と言いつつ受話器に手を伸ばすべきか迷ったことだろう。
 そんなこんなでわたしがよーくんの裸に異性を感じ出すのに前後して、よーくんも異性への興味を
 抱き始めたようだった。ふたりとも中学に上がり、よーくんの声変わりも始まった頃だ。
 こともあろうに本である。いかがわしい写真が乱舞する書籍に、よーくんの視線は釘付けだった。
 誰のものとも知れぬ裸に欲情するよーくん。それを覗き視るわたし。
 耐えられるはずもなく、よーくんが卑猥な本を部屋に持ち込むたび押しかけ、廃棄を強制した。
 隠し場所に工夫を凝らそうとするよーくんの努力は涙ぐましかったけど、わたしの「眼」に敵う道理はない。
 モノがモノとはいえ私物の廃棄を求められることはよーくんにとっても不快だったようで、
 何度か苛立ちの素振りを見せたこともあったけれど、こちらを見ると諦めたように何も言わなかった。
 よーくんは、なるべく平気な顔をしているわたしが内心で耳鳴りがするほど激昂していたのを
 察していたみたいだった。よーくんは鈍いくせに、そういう察しはやけにいい。
 鈍い──そう、彼はわたしの気持ちを知っててわざと無視してるのでは、と勘繰るほど鈍い。
 なんでこんなに甲斐甲斐しく干渉しているのに、よーくんは反応してくれないんだろう?
 もっと露骨じゃなきゃいけないのかな?


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