沃野 Act.2
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 翌朝。胡桃と連れ立って登校し、昇降口をくぐって下足場に辿り着いた。
 彼女は繋いでいた手を名残り惜しそうに離すと、三組の教室へ入っていく。
 背中を見送り、息をついた。
 さすがに朝起こしに部屋まで乗り込んでくることはないが、俺が靴を履いて玄関を出て行くと
 毎度タイミングを計ったように隣の家からも胡桃が出てきて「奇遇だね」と笑いながら手を掴んでくる。
 当然の行為と思っているかのように。何の躊躇いもなく、滑らかな仕草で指を絡める。
 柔らかい肌の感触に心が躍るが、制服の奥では食虫花が粘液を垂らしている──気持ちも冷める。
 手を繋いで登校するのは譲歩だった。胡桃が腕まで組みたがったのを俺が拒否したのだ。
 できることなら「手を繋ぐのもちょっと……」と断りたかった。
 頼めばたぶん、胡桃も聞き分けてくれるだろう。少し残念そうな顔をしながら。花を荒れ狂わせて。
 そんな様を見たくなかったからこそ、落としどころと弁えて子供みたいな要求に従っていた。
 別に俺も胡桃が嫌いなわけではない。彼女が俺の手を握って笑顔になるのを見ると、嬉しくなってくる。
 余計なものが視えるせいで過度に踏み込むのを躊躇しているだけに過ぎない。
 いっそ、隠喩される彼女の想いを知らずにいたらすんなりと付き合っていたのかも。
 ……それが幸せなことかどうかは、大口を開ける異形の花を見る限り断言しかねるが。
 苦笑しながら履き替えた靴を下駄箱に仕舞うと、自分の教室に向かった。
 高校に上がって一年目は同じクラスだったが、二年になって入れ替えがあり、別々になった。
 それが胡桃にとって相当なショックだったようで、一時期は部活もガタガタになったらしい。
 「家が隣同士なのは変わらんでしょーが」と友達に慰められ、二ヶ月経った今は回復している。
 離れ離れになることで他の女子に気が移ることでも心配したのだろうか。
 入学以来、時折束縛をイメージさせる鎖や檻の隠喩が胡桃に見え隠れして、戦々恐々としてる。
 おかげで「部屋に上がっていかない?」と誘われても言い訳して断ったものだ。
 今はそれも見えなくなったが、安心するには程遠い。
 教室も違っているのに特殊な情報の伝手でもあるらしく、俺がクラスの女子と口を利いたり
 仕事を手伝ったりすると帰りには確実に機嫌を損なっていた。
 ひと気がないところで見知らぬ女子とふたりきりになると、どこから聞きつけたのか何食わぬ顔で
 やってくる。彼女はいつも探知機でもあるみたいに俺の居場所を把握している。
 あいつの目ざとさは異常だ。小学生で会った頃から特技は失せ物探しでどんなに探し回っても
 見つからなかったものを一瞬で発見しやがったし、中学生のときは俺が知恵を振り絞って隠した
 エロ本の在り処をズバズバと看破しては掘り当て、にっこりしながら捨てることを強要した。
 人の持ち物を捨てさせるなんて横暴だが、写真の裸体にまで嫉妬心を燃やし蠢いている赤い花を
 目にして逆らえるわけもなかった。
 だからこうして胡桃のいない教室で席についていても、まだ落ち着かない。
 別段クラスの女子に疚しい気持ちなど抱いてないが、こうも行動が筒抜けになっている有り様では
 おちおちと言葉を交わす気にもなれない。自然、男ばかりと話すことになる。
 が、男も男で俺が「三組の綾瀬さん」と付き合ってると信じて疑わないから言葉に揶揄が挟まれる。
 針の筵といったところだ。隠喩も正に針の山、剣山に落ち着く。気力が削げること甚だしい。
 だから、休憩時間にそいつが言葉をかけてきたときもろくな返事をする余裕に欠いていたし、
 何よりそいつが女子である以上は会話も最低限に済ませたかった。
「先輩、英語の辞書を貸してもらえませんか──?」

 なんと、下級生だった。あっさりと入ってきたので、肩を叩かれるまで気づかなかった。
 上級生の教室を訪ねるともなれば普通、緊張を強いられるはずなのに物怖じした気配は微塵もない。
 呆れるやら感心するやら、態度を決めかねた。が、あまり話が長引いては胡桃の耳に入る。
 知らない間柄でもなかったし、さりげなく「ほい、五時間目までには返せよ」と辞書の貸与を済ませる……
 ……つもりだったが、それは周りが許してくれなかった。
「おい、洋平、この子誰だよ! ま、まさか愛人ってやつか!?」
「むしろこっちが本命?」
「てっきり三組の綾瀬さんとくっついてると思ってたのに、まさか一年の子に手を出していたなんて!」
「神は死んだ……! 死んでなきゃ俺が殺してやる!」
 クラスの連中がギャアギャアと騒ぎ出した理由は一つ。単純に、その子が可愛かったからだろう。
 ハーフだかクォーターだか、よく知らないが日本生まれなのに緩やかに波打つ金髪と青い瞳を持った小柄な少女。
 一年生というより、小学六年生といった風情。高校二年生の教室に入り込み、浮き立つこと夥しい。
「むう、あの子は……!」
「知っているのか、都電!」
「あの幼さは間違いない、一年五組の荒木麻耶!」
「荒木麻耶!? 噂に名高い『暴れロリ』か!」
 以下、解説モードに入った都電の話を要約すると、一年男子たちが好奇の目を向けてくるのに対し
 最初は丁寧に応じていた彼女が「荒木さんってちっちゃいね」の一言でブチギれ、声がした方にいた
 男子三人をまとめて叩き伏せたところ、三人中二人に「金髪ロリに足蹴にされることがこんなに気持ちいいなんて」
 とM属性を植えつけたとか。残りの一人はもともとMだったからノーカンらしい。
「そんなキモいことがあったせいか男子をヘイトして関わろうとせず、あらゆるクラス、あらゆる学年の
 アプローチを断っていたというが、まさかこんな身近に二股をかけている奴がいようとは……」
 二股って。辞書を貸しただけでえらい言われようだった。
「あー……その、荒木。気にするな。聞き流しとけ」
 他人の色恋沙汰を無理矢理にもでっち上げようとするうちのクラスのノリは、理解不能で不快だろう。
 早く退出するよう目で促した。

 別に、連中が騒いでいるほど荒木とは親密じゃない。接点と言えば荒木が図書委員を務めている縁で
 何度か言葉を交わしたり、廊下で行き合って二言三言喋ったりしたくらいだ。
 他の図書委員から「男嫌い」と聞いていた評判通りにツンケンしていて取りつく島がなかったし、
 高いところにある本を取ってやっても無愛想にそっぽを向き「……ぁりがとぅ」と礼を言うくらいで、
 下手なことをすると鼻で笑われたりする。
 なるほど、外見を別にすれば扱いにくくて可愛げのない下級生に見えることは確か。
 彼女の隠喩は、身を守る殻のような鎧だ。年相応ではない小躯を気に病んでか、対人に際しては
 舐められぬよう自分を一回り大きく見せる気概でいるのだろう。なかなかいじらしい心構えだ。
 その顔が無表情で、冷たく見えても、鎧の下からは尻尾を立てて威嚇する仔猫のような懸命さが伝わる。
 強がりであることが分かってる以上、荒木の振る舞いに腹が立つはずもなかった。
 狙って打ち解けようとも思わなかったが、胡桃以外に気軽に話しかけられる女友達がいない寂しさ
 からか、ついつい構いすぎることがあった。おかげで会うたび彼女は硬化し、鎧が厚みを増していった。
 まあ、隠喩が視えるってことは感情がこちらに向いてるわけで、無視されてないだけ充分だったけど。
 ただ、どう見たって俺と荒木が仲良く映るはずもないのに、「あの子と恐れず会話できるのってお前だけ」
「これがニブチンのパワーか」「やがてデレ期が来る、未曾有のデレ期が……」と周りから感心されてしまった。
 いや、こんな微笑ましい子を恐れたりするお前らの方が鈍いんじゃないかと思うがな。

 ちみっこいのに威風堂々として、しかも金髪碧眼。
 気圧されながらも興奮してしまう男子どもの心情は、分からないでもなかった。
 日本人離れした容貌と低身長に反する威圧感が醸し出す魅力が、倒錯的な欲望に火をつけるのだ。
 構いたくて、構われたくて、仕方なくなる。なのに、構う切欠も構われる切欠もないもどかしさ。
 遠巻きに騒いでいる連中からは、彼女と接点を持っている俺への滾るような妬みが感じられる。
 針──どころか、吸血鬼も殺せそうな杭を隠喩として突き出す奴までいた。
 恐らく、胡桃との関係もあって怒りが倍加されている。
 このまま荒木と会話を続けるのはヤバい。さっさと彼女を帰らせてから即座に誤解を消すのが得策だ。
 騒ぎが伝播して胡桃のところまで届いたら……って思うとゾッとする。
 既にあいつは荒木の存在を嗅ぎつけていて、しかも警戒している節がある。雑談でなんとなく「荒木って
 下級生がなぁ……」と話題にした途端、顔が無反応なのに食虫花の方が暴れ出した。宥めようとして
「い、いや、実に可愛げのない奴で……」とごまかしても花の憤激は収まらなかった。
 もうあいつは見境がなくなってきている。これ以上刺激したらどうなるか、知れたことではない。
 だが、荒木は俺のアイコンタクトも、周りで騒ぐ連中も無視して突っ立ったままだった。
 頬がわずかに紅潮し、唇が小刻みに震えている。
 どうしたんだ? 訝りながら、起伏に乏しい荒木の体へ視線を下ろす。
 視える隠喩は甲冑。優美な曲線を孕んだ西洋の鎧が首から下を覆い、荒木の頑なな感情を象徴していた。
 それは初めて会ったときと同じだ。あのときも視えていた、硬い鋼。
 けれど、おかしい。いつもは艶々と光沢を放ってどんな干渉も跳ね返しているはずなのに、今は
 ところどころが綻びて穴まで空いており、全身がギシギシと軋んでいる。
 一秒後にも決壊して、中から何かが溢れ出してきそうな、追い詰められた感情──
 不吉な予感が頭をよぎる。
 だいたい。そう、だいたい、なんでこいつは英語の辞書ごときで上級生のクラスにやってきた?
 「男嫌い」でも同性の友達はいる。別のクラスに行って借りれば済む話なのに、なぜ?
 分からない。だが、きっとろくなことじゃない。それだけは分かる。
「ちょっ……荒木、やめ……っ!」
 制止の声は間に合わなかった。

「好きです──先輩」

「付き合って、ください」

 一瞬の沈黙を経て迸るどよめきとともに、鎧は粉々に砕け散った。
 晒される──秘められていた植物。
 細く長い蔓と紅に色づいた葉。
 蔦だ。鎧の裏にびっしりと張り付いていたそれが宙を泳ぎ、新たな居場所を求めて俺に絡みついてくる。
 呼吸が止まる。捕縛されて、指一本まで静止した。
 いや。隠喩は隠喩に過ぎない……絡みつかれても身動きは取れる。
 俺が動けなかったのは、驚愕のせい。
 ああ……こいつ、なんてことを……。呆けた心地のままに見上げた。

 荒木は、頬を赤く染め、見たこともないような笑顔を嫣然と浮かべていた。


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