カーニバル・デイ
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「あれ、美奈ちゃんじゃない」
 お手洗いに行く途中で、珍しい子を見つけた。
 確か、敬太の幼馴染みだ。私はたまにしか実家へ帰らないからあまり会ったことはなかったけれど、
くりくりっとした大きい瞳やどこか落ち着かない感じの小動物っぽさが強く印象に残っている。
「えっと……」
 覚えていないのかな。まあいいけど。
「敬太の叔母の高井よ。どうしたのこんな所に」
「いえ……何でもないです」
 おかしいな。前と印象が違う。暫く見ないうちに変わってしまったのか。
「そう。楽しんでってね。もっとも、こんな所で展示発表してるのに面白いのはあまりないだろうけど」
「あ、はい」
 化学準備室のことが一瞬脳裏をよぎったけど、まあ、大丈夫だろう。
 私は、彼女の後ろ姿を見送った。

 さっきの人、平野君の叔母って言ってたけど……会った記憶がない。
 もともと人の顔を覚えるのは苦手だし、友達の叔母なんてそうそう会う機会なんてないし。
 とはいえ、相手が覚えていたのに自分が忘れているのは失礼だったかな。
 ……でも、今はそんなこと気にしてる場合じゃない。平野君を見つけないと。
 もう、大体の場所は回ってしまった。その度に平野君のこと聞いてみたけど、どれもいい話ではなかった。
 綺麗な人と一緒だったとか。
 手を繋いでたとか。
 ……あの二人恋人なんでしょって逆に聞かれたりとか。
 どっちへ行ったかなんて覚えてる人は少なかったし、平野君のこと知ってる人も、普通に考えたらそう
だけど、少なかった。
 手がかりがない。
 それでこんな、人気のない所まで来ちゃったけど……。
 どこにいるの、平野君。
 メールで返事が来なかったから電話したら、電源が切れているか電波の届かないところにいるなんて言われて。
 電源切って、何してるの?
 綺麗な人と、何してるの?
 あたしがいるのに、何してるの?
 ふと、誰もいない教室の戸が開いているのが見えた。
 いいや、ここで休もう。
 くぐった扉には、化学室、とプレートが掛けられていた。

「あったかい」
 北向きの窓しかない化学準備室は、六月とはいえ少し寒いくらいだった。
「洋子もあったかいよ」
 クスクスと顔を見合わせて笑う。それだけで気持ちいい。幸せになる。
 互いの身体を寄せ合って、きゅっと抱き締め合う。
「洋子、目、つむって」
「えっ……う、うん」
 ほのかに頬を染め、言われたとおりにする洋子。愛しくて、抱き締める腕に力を込めた。
「好きだよ……ん」
「あ、ん……」
 触れるだけのキス。今はこれだけ。
 顔を離すと、洋子は恥ずかしいのか目を逸らしてしまう。
「こっち見て」
「で、でも……」
「いや?」
「ええと……その、恥ずかしくて」
「なんで?」
「だって、あなたの顔を見てると……その……」
 洋子はもじもじとするだけで答えようとしない。
「僕の顔見てると、なに?」

 ぼおっとするのにも飽きてきた。
 もうあと一時間しか残っていない。
 でも、もう、いいかな。
 だってこれだけ探して見つからないってことは、きっと神様が私と平野君を別れさせようとしてるんだ。
 立ちあがって、なんとなく部屋の中を見て回る。
 戸棚にはビーカーとか試験管とかおなじみのものから、
 何に使うのかよく分からない変な形のガラス器具まで色々あった。
 中学校を思い出す。
 あの時は、私と平野君は実験の時いつも一緒だった。
 中学生って子供だから、そういうのはやし立てるの大好きで。
 すごく恥ずかしくて、でも嬉しかった。
 あの頃に、帰りたいな。
 ほぼ一周して、ふと実験準備室、のプレートが目に入った。
 あの頃は、こういうところ入れてもらえなかったけれど、開いてるのかな。
 ちょっとだけ。
 そう思ってノブを回し、押すと、何の抵抗もなくドアは開いた。

「あなたの顔を見てると……やだ、言えない」
「ほら、言って」
「何を言うの」
 えっ!?
 そこにいる人物。いるはずのない人物。信じられない。信じたくない。だが、彼女はそこにいた。
「……み、な?」
「そうよ。ねえ、なにしてるの平野君。こんなとこで。二人っきりで。おかしいね」
 震える声。
「あ……」
 洋子は僕から身体を離し、目を伏せた。
「おかしいでしょ! なんでそんなことしてるの? その人誰? 平野君のなに?」
 声のトーンが上がっていく。震えも大きくなっている。今にも泣き出しそうなその声に、僕は何も言えなかった。
「答えて。だれ? だれなの? ほら、早く答えてよ!!」
 それに答えたのは、洋子だった。
「私は高宮洋子というの。平野くんとは同じクラスで……」
 一度目を伏せてから、洋子は言った。
「恋人よ――」
 パンッ!
「この泥棒猫っ!! 信じられない、どうやって平野君を誑かしたの!? その顔!? その身体!?
この悪魔!! 淫売!! あんたなんか死んじゃえばいい!!!」
 口汚く罵る美奈は、今まで見たことないほど必死で……哀れだった。
「美奈、やめろよ……」
「平野君も平野君よ!! こんな悪女に騙されて、どうしてあたしのことを見てくれないの!?ずっと
メールだけで寂しかったのに、どうしてこんな女と抱きあってるの!?」
「それは……僕が、この洋子のことを好きだから」
「騙されてるの!! 騙されてるんだよ!! 嘘だって言って、ほら、やっぱりあたしのことが好きって言ってよ!!」
「……ごめん」
「っ!! そこの女!! さっさと私の平野君から離れてよ!! あたしのいない間にちゃっかりと、
平野君の隣なんかに入り込んで!! あんたがいるから平野君だって本当の気持ちを言えないのよ!!」
 洋子はきゅっときつく唇を結んで、それから静かに言った。
「それはできないわ」
「できない!? 何言ってるの、勝手に住み着いた泥棒猫のくせに!! そこはあなたの居場所じゃない!!
私の居場所なんだから!!」
 洋子はあくまで、淡々と答える。
 だが、分かった。彼女は戦っている。美奈と、そして恐らくは自分自身と。
「ごめんなさい……でも、ここは譲れない」
「なっ……!! ちょっ、いい加減にしてよ!! 大体あんた、あたしより後に出てきたくせになんで
あたしより近くにいるの!? おかしい、そんなの絶対おかしい!!」
「おかしくはないわ。……平野くんは、美奈さんより私のことを――」
 パンッ、と再び音が響いた。

「思い上がらないで!! あんたなんか、私がいない間の平野君の暇つぶしでしかないのよ!!だから、
だから、もうそこからどきなさいよぉっ!!」
「美奈、もうやめろ!」
「あっ……」
 僕の怒鳴り声にそんなに驚いたのか、美奈の瞳にさっと涙が浮かんだ。
「なんでよぉ……なんで……なんで……」
 さっきまでとはうって変わって、すすり泣き始める美奈。
 僕と洋子が何も言えないでいるところへ、唐突にそれは現れた。
「何ごと!?」
 叔母だった。
「あ……叔母さん」
 美奈はすすり泣き、美奈は下を向いて何も言わなかった。
 その様子から大体の状況を察したのだろう、叔母は努めて冷静に言った。
「……今は何も聞かない。美奈ちゃん、もう青華祭は終わりよ。私と一緒に行きましょう」
「でも、でも!」
「分かって。そうでないと、沢山の人に迷惑を掛けてしまうの」
「……はい」
「二人とも。もうすぐ各クラスで点呼を取るはずだから早く行きなさい」
「あ、はい」
「分かりました」
 僕も洋子も、足どりは重かった。それでも僕は洋子を選んだことに後悔はしていない。
 そして、洋子もそうだと……信じている。

 帰り道。僕は洋子と一緒に歩いていた。彼女を家まで送るためだ。
「ごめんね」
「いいんだ。今日は、大変だったから」
 いつもは家が正反対だから送れないけれど、今日くらいは。
「あの、あれから美奈さんはどうしたの?」
「叔母が家まで連れてったらしい。その、普通の状態じゃなかったから」
「……そう」
 うつむいてしまう洋子。
 僕は黙ってその手を握った。
「あ……」
「ごめん、僕が悪いんだ。でも、はっきりさせるから。美奈にきちんと別れようって言うから」
「ええ……こんな時、なんて言えばいいのかしら」
「ありがとう、でいいんじゃないかな」
「……でも、美奈さんが」
「あまり気を遣いすぎるのは、残酷だよ」
「そう、かしら」
 西日に向かって歩く僕らは、気付かなかった。
「そうだよ。洋子は優しい。優しすぎるんだよ。美奈にしてみれば、遠慮される方が辛いと思う」
 後ろから近づく、彼女に。
「ホント、その通りだよ」
 ザシュッ、と音がした。僕と洋子の間から。
 カアッと熱くなる指先。見れば、指が、無かった。
「う、うわあぁぁ!!??」
「あ……ああ……!!」
「死んじゃえ」
 呆然と自らの手を見つめる洋子に、冗談のように包丁が沈み込んでいく。
 そして、引き抜かれたそれは、
「平野君も一緒がいいでしょ? だって、二人はコイビトなんだからね!」
 僕の腹の中へと……。
 洋子は、涙を流して、僕を見つめて。
 たすけて、と震える唇で呟いた。


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