元樹さんの言うところによれば、事態は一応の終結をみたらしい。
もう何も心配は要らないよ、と彼は穏やかな顔で言うが、
あれがそんなに簡単に彼を諦めるとは到底思えない。
策謀の限りを尽くし巡らし、彼の枕元で好機を今か今かと息を潜めて待っているに違いない。
元樹さんは優しい。優しすぎるほどだ。
だからこそ、あの雌狐がまた何かしでかしたら、きっと形勢はあっさり逆転してしまうだろう。
そうなればまた私が追う番だ。そんなのはまっぴら御免である。
私にアドバンテージがあるうちに、完膚なきまでに、叩き潰す。
もともと倉井楓という女性は“そういうたち”である。
どんな状況であれ、用心のしすぎということはないのだ……
都内でも有数の大きさを誇るこの書店で、彼の妹君は働いていた。
長い黒髪を後ろでまとめ、白いシャツの上に深緑のエプロン、
グレーのデニムパンツという出で立ちで本棚に立ち向かう彼女は、
かつての浮世離れした雰囲気をもはや纏ってはいない。
背丈が自分の半分ほどしかない少年少女に、
しゃがみこんで笑顔で応対するさまは、まるで年若い保母のようですらある。
「“ご苦労様です”」
後ろから耳元に囁きかける。
「―――あ、はい、お疲れ様で―――す」
上司から労いの言葉を掛けてもらったと勘違いしたのか、
営業スマイルのまま振り返ったはいいが、口元が引きつっている。
「……お仕事終わったら、ちょっと時間いいですか」
「今さら……今さら、何も話すことなんてありません」
憤懣やるかたなし、といった表情を浮かべる楓さん。
「貴女になくても、こちらにはあるんですよ」
「……今、この場で聞くわけにはいかないの?」
何が何でも差し向かいで私と会話するのが嫌らしい。
「本当に言ってもいいんですか? 仕事にならなくなりますよ」
「……兄さんのこと?」
「それ以外に何があると?」
「……わかったわ、終わったら連絡します」
「あれ、私の連絡先(アドレス)、知ってるんですか?」
「……最低ね、貴女」
「何を今さら」
会合の場所に指定したのは路地を入った所にある、あまり人の寄り付かない喫茶店だった。
客の入りは決して良いとは言えないがちゃんとしたものを出す、いわゆる穴場というやつで、
元樹さんに教えてもらったお店である。
「……で、お話って何かしら。森川樹里さん?」
目の前でゆらゆらと香ばしい湯気を立てるブレンドに手を付けすらしないうちに、楓さんは切り出す。
「落ち着いてコーヒーくらい飲ませてくださいよ」
ガラスのポーションケースから角砂糖をカップにひとつ落とし、攪拌する。
「……はっきり言いましょうか。今こうしてるだけで凄く不快なの。
貴女がどれだけ酷いことを言うつもりなのか知ったことじゃないけど、」
「いつまで先輩と一緒に生活してるつもりですか?」
あくまでさらりと。
野原で摘んだ花束を差し出すような調子で、中には蜥蜴という悪質。
「……兄さんに出て行け、って言われるまでです」
「ふざけないでください、彼がそんなこと言うわけないでしょう」
「別にふざけているつもりはないんだけど」
「単刀直入に言います。邪魔です。この上なく邪魔です。
貴女が彼の部屋に居座っているかぎり、いつまで経っても遊びに行けないじゃないですか」
「……不潔」
「貴女にだけは言われたくないですね」
これだけは譲れない。
「……話はそれだけ? もう行ってもいいかしら」
「あくまで立ち退く気はない、ってことでいいんですね?」
「貴女に指図される謂れはありませんからね」
「後悔しますよ」
「……今でもしてるわ。十分ね」
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わたしの周期はわりと正確だったから、一ヶ月も遅れた時点で半ば確信していた。
バイトの帰り、薬局に寄って買ってきた“それ”を目の前に、しばし瞑目する。
歯ブラシと体温計を足して割ったような、珍妙なフォルムのそれにどれだけの信頼を置いていいものか。
心臓がばくばくいっている。いっそ身を投げてしまいたい衝動に駆られるが、そうもいかない。
兄さんと約束した。きっと立ち直り、いつかあの日の兄妹に戻ると。
それまでは、わたし自身さえも、わたしが勝手に決着してはならないのだから……
きっかり一分後。
わたしは判定窓を覗き込み、そのままテーブルに崩れ落ちた。
入学試験の受験番号、就職内定の厚い封筒、人生を左右するシンボルは多々あるだろうが、
女として生まれてきた以上、これを超える通告は恐らくあるまい。
(妊娠した―――)
思い返せばずさんな避妊だった。避妊具は一応付けていたが、無ければ無いでそのまましていたのだから。
やっと歩き出せる、ここから前に進めると思った瞬間にこれだから、運命というやつはかくも残酷だ。
どうすればいい。
どうすれば、いいんだろう。
兄さんに、言える?
兄さんの子供ができたって、本当に、言える?
……言えない。
ぜったい、言えない。
なら、黙って堕ろす?
兄さんが授けてくれた、この小さな命を、殺せる?
ずっと昔から、心の奥底で望んでいた、この奇跡を、手放せる?
無理。できない。そんなことするくらいなら、死んだほうがまし。
じゃあ、どうすればいいって、いうの?
タンクトップにトランクスという、うちのお父さんと同じ格好をして、
駅の近くの屋台で買ってきたという焼き鳥とビールで、野球中継に夢中の兄さん。
こうしている間にも、わたしの下腹に宿った新しい命は、
わたしの血中から栄養を吸収し、着々と成長しているのだ。
異物だ。
異物である。
わたしの意志とは関係なく、この子は十月十日を目指しこんこんと眠り続けるのだ。
「食うか?」
兄さんが串の一本を差し出す。どす黒く濁った肝臓に、甘辛いたれで味をつけ焼いたものが四切れ。
「……い、いい。要らない……うぷ」
猛烈な勢いでトイレに駆け込んだわたしの背中を、兄さんがさすってくれる。
だめだ、ぜったい、殺せない……
結局その日は一睡もせず、先のことを考えていた。
同じ部屋で暮らす以上、そう隠し通せるものでもないだろう。
お腹が大きくなってくれば絶対に気付かれる。
だが、母体保護法によって定められている二十二週を守りきれば私の勝ちだ。
それ以降の堕胎は業務上堕胎罪にあたるため、気付かれたところでもう堕ろすことはできない。
あとは両親に泣きついてでも絶対に出産してみせる。
利用できるものは何でも利用してやる。鬼にでも畜生にでもなってやろうじゃないか。
兄と愛し合うことを決めてからというもの、
人の道を外れることに躊躇などなくなって久しいのだから。
翌日、バイトを休み産婦人科へと赴いた。
待合室は若い女性たちで一杯だった。
マタニティドレスを着たひとはやはりというか全体的に表情が明るい。
人の世は移り変われど、妊娠出産は自身の女性性を完全肯定される事象であることに変わりはない。
むしろ、いかにもできるオンナといった趣の女性が俯いている姿を見ると、暗澹たる気持ちになる。
わたしのような人種にとって、彼女らの心象を理解することは難いが、幸せになってもらいたいものだ。
……なんだろう、この余裕は。
実の兄の子を身篭ってしまった妹なら、もっとこう、悲壮な雰囲気を纏っていてもいいんじゃないのか?
自問自答して、可笑しくて、思わず吹き出してしまう。
「何ヶ月ですか?」
隣に座っていた、ポニーテールの女性に声を掛けられる。
彼女も薄桃色のマタニティに身を包み、かなり大きくなったお腹をさすっている。
「まだわからないんです。初めてここに来たもので」
「あら、じゃあ検査薬か何かで?」
「ええ、どうやらおめでたみたいで」
おめでた、が肯定表現であることを理解したのだろう、女性の表情がぱあああっと明るくなる。
「おめでとうございます、ほんとに」
「ありがとうございます」
ふたり顔を見合わせながら笑う。
女性が妊娠すると綺麗になる、ってほんとだな、って思う。
「お姉さんは妊娠何ヶ月ですか?」
「これで7ヶ月目なんですよ」
おっきいなあ。
「旦那さまがね、熱心にかまってくれるからすごく嬉しいの。
結婚する前はすごくクールなひとだと思ってたのにね」
「わたしも、寂しがり屋だからかまってもらえるとすごく嬉しいです」
「大丈夫、パパになると、びっくりするくらい男性って変わるから。いっぱい甘やかしてもらえるよ」
それは、わたしには、ないことだと、わかっていたけれど。
「楽しみです」
いいんだ、そんなものは。
本来わたしの妄想の中でしかありえなかったことが、
今こうして現実として私の目の前に横たわっているのだから。
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仕事が忙しく、帰って寝るだけの生活が続いた。
別々の布団で寝るようになった。
一緒に風呂に入ることがなくなった。
食事のメニューが元々立派な内容だった。
楓は元々、あまり身体が丈夫なほうとはいえなかった。
気付けなかった理由はいくらでも後付けで用意できるだろうが、事実だけは変わらない。
楓が妊娠した。しかも既に堕ろせない時期に差し掛かっているという。
後悔は後ですればいい、とるものもとりあえず実家に連絡した。
報せを聞くなり田舎からすっ飛んできた両親も、僅かに膨れた楓のお腹を見るなり泣きだしてしまった。
老いはじめた親二人に縋りつかれながらも、楓は超然としていた。
それはむしろふてぶてしさすら感じさせる微笑であり、
母の強さともまた違う、もっと子供じみた虚勢だったように思う。
ひと段落すれば、あとはお袋の独壇場だった。
やれ腰は冷やしてはいけないだの、薬は絶対飲むなだの、
楓にひとつひとつ出産の心得を伝授している。
それにふんふんと頷きつつ神妙に聞き入る楓を、
頬杖をつきながら眺める野郎ふたり。
親父の表情は読めない。
ただ一言ぽつりと、すまなかった、とだけ聞き取れた。
それが何についての謝罪なのかはっきりしなかったが、おれは頷いた。
「……で、だ」
「……ああ」
「……男の子か女の子か、聞いたか?」
「多分、女の子だってさ」
「名前は決めたのか?」
「……今日初めて何もかも聞いたのに、考えてるわけないだろ」
「それもそうか」
「……」
「……」
「……孫の顔が、楽しみだ」
「親父……」
しんみりとした空気が流れたその瞬間、玄関のドアがばたーんと盛大な音を立てた。
「先輩先輩! 私妊娠しましたっ! これでこれで、楓さんと一緒に住むわけにはいきませんよね!
責任とって結婚してくださいっ! 何なら入り婿でも結構です! 両親に挨拶に来てください! 今すぐ!
新婚旅行はどこにしますか? やっぱり海外ですか? ハワイ? グアム?
両親はシンガポールだったらしいのでそれもいいですよね! 元樹さんは煙草吸わないし!
式は前も言ったとおり神前式がいいです! でもやっぱりウェディングドレスも捨てがたいですよねっ!
いずれにせよお腹が目立つ前にやっちゃいたいので次の休みに一緒に式場の下見に行きましょう!
さー楓さん、これで元樹さんは私のものです! 正攻法ですよね? 常道ですよね?
文句はないですよね? いくらなんでも嫁入り前の身体を傷物にした上に身篭らせて、
その責任を取らせないとは言わせませんよ?
あンだけどぱどぱ中に出しておいてまさかとは言わせませんよ?
証拠のビデオも、ボイスレコーダーも、 ついでに言うと使用済みの近藤さんもいらっしゃいます!
嘘だと思うならDNA判定でもなんでもどうぞ! 悔しいですか、悔しいでしょう、
でも貴女は元樹さんの妹だからどうしようもありませんね、大丈夫、
貴女くらい魅力的な女性ならいくらでも男性が言い寄ってきますから。
ちぎっては投げ、ちぎっては投げっぱなしブレーンバスターって感じですよええ。
よろしければうちの事務所にいい男がいますから紹介しますよ?
さえない感じですが根はいい人です。保証します。
さあ元樹さん、下にタクシーを待たせてますので来てください!
まずは元樹さんのご両親にご挨拶に参りましょう!
こういうことは早ければ早いほど心証がいいってものですからね! 末永いお付き合いになるんですから、
こういう儀式はきちんとしましょう。ああ何だか緊張してきました、
でもきっと元樹さんのご両親ですからさぞ立派な 方々なんでしょうね、ちょっと安心です。
でも楓さんのご両親でもあるんですよね、もしかしてお二人は血縁関係にあるとか?
そのせいで楓さんがインセスターでモラルハザードで畜生道まっしぐらになったとか……
はっ、憶測でひとをどうこう言うのは良くないですよね、ごめんなさい。
でもきっときっと大丈夫ですよね、 元樹さんも私もまだ若いですが社会的地位もありますし、
ふたり合わせれば収入は十分ですしね! さあ行きましょう、ぐずぐずしている暇はありませんよ?
一時間後に新幹線の指定席を取ってありますからっ!」
ぜはー、ぜはー、と荒い息をつく樹里。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あれ?」