妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる 第2章 第12回
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 東京に戻ってきても、相変わらず楓とは顔を合わせることができずにいた。
もちろん携帯で話すこともできるのだろうが、
当の楓がそれを望んでいないような気がしてそのままだ。
樹里ちゃんは本当によくしてくれるし、それについて不満はまったくないからこそ、
このままでいていいはずがない。
結局、おれは何の覚悟もできていなかったのだろう。
人倫を踏み越え、それを維持していくだけの根性も甲斐性もないのに、いたずらに楓を傷つけた。
今さら何を言って許してもらおうという気もないし、その資格はないのだとわかっているけれど……

 ……?
見覚えのある若草色の包みがおれの机の上に置かれている。
「ああ、それ。奥さんが置いていったよ」
澤田さんが火の点いていない煙草を手の中で弄びながらこっちにやってくる。
「いやー、何だか護ってあげたくなるタイプの娘だね。きみにはお似合いだと思うよ。
それにしても、愛妻弁当を忘れていくとはきみも大概にひどい奴だねえ。
わざわざ届けにきてくれる、っていうのも甲斐甲斐しいけど……」
……楓だ。
ということは、ここまで来たんだ。
「……早く、ちゃんとしてあげなよ?」
肩を叩かれる。
……そういうことで悩んでいた日々が、何だか凄く昔のことのように思える。
同僚たちに冷やかされながら包みを開くと、二つ折りにしてあるメモが床に落ちた。

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一度ちゃんとお話したいので、今日は寄り道せずに帰ってきてください。
お仕事、がんばってくださいね


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……。
今の楓が何を考えているのかは正直わからない。
おれにできることは、楓の言葉を真摯に受け止めてやることだけだ。
その上で、できること、できないことをきちんと伝えよう。
弁当箱は高校時代から愛用している、楓のそれの二、三倍近い容積を誇る“どかべん”で、
中身はきちんと色味と栄養のバランスを考えてあるのがよくわかる。
思えば楓の作る飯を食うのも久しぶりだ。あいかわらずうまい。
最近は外食か弁当ぐらいしか食べられなかったからな……
料理ができないわけじゃないが、疲れて帰ってきて自炊するほど体力が有り余ってるわけでもないし。
うちのお袋から継承されたこの味がいつか、どこかの家庭の味になるんだと思うと、何だか不思議な気分だ。

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フライドチキン。
オムライス。
グラタン。
ハンバーグ。
洋梨のケーキ。

そんな、年端もいかない子供のおつむをひっくり返したようなメニューの数々が、
狭いテーブルの上に溢れんばかりに並んでいる。
「……なんか、すごいな」
「思いつくままに作ったら、こんなことになっちゃって」
エプロンを外しながら、楓が台所から出てくる。
しばらく見ない間に、少しやつれてしまったようにみえる。

「……うん、じゃあ、ちょっとだけ、お話、させてくれますか?」
「……ああ」
いつかのように、ふたり向き合って正座する。
「まず、勝手に部屋を開けて出歩いたこと。ごめんなさい、心配おかけました」
「うん」
「それと、……色々、酷いこと言ったり、その、しちゃったりして、ごめんなさい」
「……うん」
楓の雰囲気からとげとげしさや、悪意のようなものは感じられない。

「……あれからいろいろ、本当にいろいろ考えました。
いったい何が正しかったのか、間違っていたのか、
結局わたしは何がしたかったのか、まともに寝ないで、ずっと考えてました。
……その、兄さんは、……森川さんのことが、好きなんですよね?」
「……ああ」

「兄さんのいないところで、一度だけ会ったんです。
……ものすごい喧嘩しちゃって、それっきりですけど。
もちろん、最初は許せませんでした。
わたしを裏切った兄さんも、兄さんをそそのかした森川さんも。
ふたりに対する憎しみで、こころが真っ黒になりました。
しばらくはそのままでいました。
ずっと、ずっと、ずーっと、
黒い絵の具みたいなどろどろした気持ちにまみれたまま、いました。
自分の中に、こんなに醜い部分があるってことに驚いて、それすらも怒りに変わっていきました。
……森川さんとも、その頃喧嘩しました。
その後も、その、ちょっと辛いことがあって、ますます気持ちは沈んでいきました。
でも、どんなに兄さんのことを憎んでも、嫌いにはなれなかったんです。
いっそ嫌ってしまえば楽だったのに、できなかった。
いっぱい、いっぱい、いっぱい考えました。
何千回、何万回同じことを考えても、それでも答えは結局変わりませんでした。
……やっぱり、わたしには兄さんが必要なんです。
女として愛してくれなくてもいい、他に恋人がいてもかまいません。
昔と同じように、妹としてでいいですから、そばに、いさせてください。
ほんとうに、それだけで、十分です。
だから、おねがいします。
それが、かえでの、望みです」

……楓。

 
「兄さん、覚えてますか?
本当に小さい頃―――わたしが幼稚園くらいの頃、兄さんに言ったんです。
兄さんのお嫁さんになりたい、って。
そうしたら兄さんったら、なんて言ったと思います?」

「……ぜんぜん憶えてない」

「『ぼくは料理の上手なおよめさんがほしい、そうしたら好きなものを毎日作ってもらうんだ。
だからぼくのおよめさんになりたいなら、料理がうまくならないとだめだ』、
って。それからわたしは、母さんに料理を習い始めたんですよ」

楓は微笑む。
男に媚びるそれではない。
家族に向ける、親愛の表情だ。

「……お嫁さんにしてくれなくてもいい。
これからも、ずっと、楓のお兄ちゃんでいてください」

楓が膝の上で握った拳が、ぶるぶる震えている。
笑った口元が、小刻みに痙攣している。
目元に少しずつ涙が溜まり、それを懸命に抑えようとしている。
血を流し、激痛に襲われながらも、楓は歩き出そうとしている。
自分で決めた道を、自分の力で。
それはあたかも、生まれたばかりの仔牛が、自分の足で立ち上がろうとするように。
一体誰が、それを哂えるというのだろう?

「―――ああ。いつまでも、おまえはおれの妹だよ」

何度も立ち止まり、後ろを振り返り、道に迷い、崖から転げ落ちて、
隣を歩く人間はおろか、世界中のすべての人間の足音さえも信用できなくなって、
それでもおれたちは辿りついた。
ここからすべては始まっていくんだ。
おれたちのすべてが。

妹よ。
寂しいときは甘えていい。辛いときは泣いていい。
それでもいつか、傷口は乾くから。
その時がおまえの、本当のはじまりだ。

それまでは、おれがそばにいるから。

「―――それにしても、随分たくさん作ったな。しかも子供の好きそうなもんばっかり」
「“子供の好きなもの”じゃありませんよ。“子供の頃の兄さんが好きだったもの”です」
「その頃のおれがこの光景を見たら、嬉しさのあまり気絶していただろうな……」
「この年になって、やっと叶えてあげることができました」
「うれしいよ、すごく。ただ、いっぺんには食いきれないだろうな」
くすくすと楓はわらう。
「食べたい分だけ食べて、後は冷蔵庫にしまっておきましょう。
作った側の人間としても、味わって食べてもらいたいですから」

ふたりで向かい合って、どれもこれも力作ぞろいの料理たちを味わう。
これだけ大量でも食べる口は二つしかないので、どうしても冷めてしまう。
申し訳なく思いつつも電子レンジで小刻みに暖めながら、子供の頃の思い出話に花を咲かせる。
思えば遠くに来たものだ。
日々の生活に忙殺され、世の中の裏側のえぐさを知り、
どうしようもなく空虚な感覚に押し潰されそうになったこともあった。
そんな時はいつも、昔を思い出して耐えた。
あの頃はあんなにも無鉄砲で、何を恐れることもなく日々を生きていた。
団地の連中とあたりを駆けずり回り、毎回のように擦り傷をこしらえて帰ってくるおれを手当てしてくれる、
もみじの葉っぱのような、小さな手のひらのぬくもりを憶えている。

その日は結局、別々に風呂に入り、同じ布団で眠りについた。
楓がそれ以上何かを望むことはなく、平穏に夜は更けていった。


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