妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる 第2章 第8回
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 自分のしていること、やろうとしていることが道義に反するのは承知の上だけれど、
 何かあるたびに、私のか細い決意は蝋燭の炎のように揺らめいてしまう。
 先輩が一瞬遠い目をしたり、
 私に呼びかけるときに、かえで、と言い間違ってしまったり、
 楓さんの話題を意図的に避けているのがみえみえのときだったり……
 自分で決めたことだというのに、まっすぐ前を向くことができない。
 ……しっかりしろ、森川樹里。
 最初から孤立無援なのは、わかり切っていたじゃないか……

 やはりというか何というか、楓さんと先輩は同棲しているらしい。
 楓さんとの最後の記憶がよみがえる。
 楓さんは、先輩だけが自分の存在価値だと云った。
 それに比べれば、私はきっと色々なものに恵まれているのだろう。
 だが、ここまできて引くわけにはいかない。
 まるで下種だが、先輩が私のからだに溺れてくれたならそれが一番楽だったと思う。
 実際は逆だ。私が先輩との行為に溺れている。
 私の体を撫で回すその技術が、恋敵によって培われたものだと思うとなかなか複雑なものがあるが、
 あくまで過去は過去だ。ふたりが兄妹を超えた関係にあったという単なる事実でしかない。
 未来はこれから変えていくんだ、きっと……

 ベッドサイドに置いてある先輩の携帯を手に取る。
 忠告どおり、わかりやすい暗証番号にはしていないらしい。
 だが甘い。私は今日に限って持ってきていた別のバッグから、仕事で使っているノートパソコンと、
 携帯電話とパソコンを接続するケーブルを取り出し、先輩の携帯とパソコンを接続する。
 先輩が起き出してくる様子はないが、手早く済ませよう。
 私はあらかじめ用意しておいたショートカットから、携帯電話の管理ソフトを立ち上げる。
 メニューから“暗証番号サーチ”を選択し実行。プログレスバーがゆっくりと伸びはじめる。

 

 こういうものがこの世に存在しているのを知ったのは仕事絡みでのことである。
 医者がモルヒネにはまるのと同じ理屈だ。
 医者だろうが弁護士だろうが教師だろうが、中身は人間である。
 実際に悪事に手を染めるか否かは、結局のところ個人の問題であろう。私は前者だが。
 解析開始から30分ほどして無事に暗証番号を手に入れる。
 この4桁の数列がどのような経緯によってここに収まったかは不明だが、そんなことはもはやどうでもいい。
 後はこの暗証番号を使って、取り出せるだけのデータをパソコンにコピーしてしまえばOKだ。
 全ての情報を実際に使うかどうかは別だ。私は先輩の社会的地位を脅かしたいわけではない。
 ただ、使えそうなものは全て手札として持っておこう。
 私が戦っているのは、真正面から攻めても絶対に勝てない相手だから。

 何事もなかったかのように元の位置に携帯を戻し、先輩の寝顔を眺める。
 なんとも締まりのない顔だ。
 だがそれが、私を無条件に信頼していることの表れだと思うと胸が熱くなる。
 このひとを手に入れてみせる。絶対に。
 決意を新たにし、私は先輩の胸元へと滑り込んだ。
 ―――反撃開始だ。

 

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 暦の上の季節なんてものは大抵先走りすぎだと毎年思うが、五月の連休を過ぎてからやたらと暑い。
 温室効果とかコンクリートジャングルとかヒートアイランド現象とか、
 とにかくそこに生きる人間にやさしくない街だ、ここは。
 
 あれからも樹里ちゃんとの“交流”は続いていた。
 枕語りに聞いた話によると、結婚がどうこうというのは明日明後日に決着しなければならないことではないらしい。
 それとなしにおれの気持ちを聞かれたこともあったが、あいまいにごまかすことしかできなかった。
 樹里ちゃんは魅力的だ。それは動かしようのない事実だろう。
 楓のことがなければ、なけなしの勇気と根性を振り絞って奮起していたに違いない。
 だが、楓の存在がおれにそれを踏みとどまらせている。
 あいつにはおれしかいない。
 だが、楓を女として愛しているかと言われると素直に首を縦に振ることができない。
 だったら何故楓を抱ける?
 愛とセックスは別物だ、なんて都合のいい言葉に納得させられたくはない……

「ただいま」
 久々の定時帰宅である。
 最近は残業続きで、帰ってきても飯も食わずに泥のように眠る日が多かっただけに実にありがたい。
 思えばずっと楓とはご無沙汰だったのを思い出す。
 楓ちゃんの相手をしているのでそっちはそれほどではないのだが、
 多少がっつくくらいのほうが怪しまれないかもな……
 と、何故か電気が付いていない。
「……居ないのか?」
 鍵が掛かっていなかったのがちょっと気になる。
 手探りでスイッチを探り当てる。暗闇に慣れた目が一瞬眩み―――

「……なんだ、いるじゃないか」
 びっくりさせないでくれよ。
 楓はテーブルにうつぶせるようにして、ぼんやりとしている。
「最近は物騒だから、日中で家にいても鍵は掛けておけって言ったよな? 気を付けろよ?」

 背広をハンガーに掛け、ネクタイを緩める。

「……あれ? 飯まだ作ってないの? おれ腹減っちゃったよ。そうだ、たまには外に食いに行くか?
 駅前にさ、新しく蕎麦屋ができたんだよ。同じ駅で乗り降りする会社の先輩が、お勧めだって言ってたからさ。
 折角だし食べに行かないか? うちたての蕎麦粉の香りがそれはもうたまらないらしいぞ?」

 楓はうずくまったまま、ぴくりとも動かない。

「……もしかして、調子悪いのか? だったら無理せず寝ろよ。おれは適当に済ませちゃうからさ。
 食欲はあるか? 何か食べたいものあるか? ……朝のメシってまだ残ってたっけ。
 お粥くらいなら作ってやれるけど……」

「……」

「……楓?」

 どうにも様子がおかしい。
 額に手を当ててみるが、熱があるわけではないようだ。

「……一体どうしたんだ、言ってくれなきゃわからないぞ」

「……」

 楓は焦点の合っていない視線をこちらに向けてくるだけで、あとはだんまりだ。

 

 ……困った。
 長い兄妹生活、楓の機嫌を損ねることなんてそれこそ無数にあったが、こういう反応は初めてだ。
 それとも本当に具合が悪いのであれば、大事になる前に医者に連れて行かないとまずいだろう。
 もう一度体温を、今度は額を合わせて測ってみる。
 ……おれの感覚を信じるならば、楓は平熱である。おれより若干低いので、僅かにひんやりとするのだ。

「……ねえ、にいさん」
「……なんだ?」
「……わたしのこと、すき?」
「どうしたんだ、藪から棒に」
「いいから。……わたしのこと、すき?」
 ……ははあ。これはあれか、久々におれが早く帰ってきたもんだから、かまって欲しいんだな。
「……好きだよ」
「……あい、してる?」
「愛してる」
「……だれよりも?」
「誰よりも」
「……ほんとう?」
「本当だよ」
「……ほんとにほんとう?」
「本当の本当」
「……うそじゃない?」
「嘘じゃないってば」
 ……今日は妙に強情だな。

「……じゃあ、これ、うそ、ですよね?」
 楓が自分の携帯を開く。

「びっくりしちゃいましたよ、今、こういうのってパソコンで簡単に作れちゃうんでしょう?
 あいこら、って言うんですよね。一瞬自分の目を疑いました。すごい技術ですよね。
 ……それにしてもひどいですよね。何でわざわざ、わたしたちを標的にするのかな。
 世の中にはもっと悪いひとや、ひどいことして平気なひとがいくらでもいるのに。
 どうやって兄さんの写真を撮ったんだろう。会社の人かな。ひどいよね。盗撮だよ。
 しかもね、送信元がわたしのアドレスになってるの。わけがわからないですよね。
 どうにかして送り主を調べられないでしょうか、警察? 探偵? 興信所とか?
 ねえ兄さん、どうすればいいですか? これは立派な名誉毀損ですよ!
 ……ほんとに、もう、なんていうか、わたし、つらくて……」

「……」
「……兄さん?」
「……」
「……黙ってないで、何とか言ってください」
「……」
「……わたしのこと、好きだって、誰よりも愛してるって、言ってくれたばかりじゃないですか」
「……」
「……ほんとのほんとに好きだって、たった今言ったじゃないですか」
「……」
「……うそ、ついたんですか」
「……」
「うそ、ついたんですか、って訊いてるんですこっちは!!」
 
 
 
 
「……すまん」

 ―――瞬間。
 天地が逆転した。


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