妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる 第2章 第7回
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 ―――連続する水音で一気に覚醒した。
 水道代が怖すぎる、と思って飛び起きたが、それがいつもの自分の部屋でないことに気づく。
 起き抜けに嫌な汗をかいてしまった。と同時に、昨日の夜のことをまざまざと思い出してしまう。
 そっか、おれ、樹里ちゃんと……
 ハンガーに掛けられたスーツと、シーツについた赤黒い血の跡はどちらもひりひりするくらいに現実だ。
「おはようございます、先輩」
 バスタオルを体に巻きつけた樹里ちゃんがいそいそとバスルームから出てくる。濡れた髪と白い肌が朝日を受けて眩しい。
「……ああ、おはよう。おれも浴びるわ」
 極力視線を合わせないようにして、おれも入れ替わりでシャワーを浴びる。
 熱い水流で情事の残滓を洗い流すうちに、頭も仕事の体勢に切り替わっていく。
 二人分の飯のたねをつつがなく稼ぐためにも、いつまでもめそめそ思い悩んでもいられない。
 そのあたりは同じ社会人の樹里ちゃんのことだ、きちんと理解してくれているだろう。
 後日あらためてじっくりと話をすればいい。そうしよう。
 
 近くの牛丼屋で朝飯。
 いくら樹里ちゃんが色々なことを気にしない娘さんだとしても、さすがにこれはないだろうとも思ったが、
 そこはそれ、彼女は規格外ということで納得しておく。
「……忙しければ食事もままならないときもあります。それを考えたら十分幸せですよ」
 その少女ポリアンナ的なポジティブさは、ぜひ見習いたい。
 樹里ちゃんはいつもと変わらないように見える。
 それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。
 ただ、昨日の樹里ちゃんはとても弱っているようにみえた。
 たとえ刹那の慰めであったとしても、かりそめの支えであっても、
 樹里ちゃんのこころの安寧に繋がるなら、それでいい。
 根本的な問題の解決はじっくりやっていこう。
 それがおれの、友人代表の役目だろうと、思う。
 
 樹里ちゃんとは駅で別れることになった。
「先輩、また、会ってくれますか?」
「……ああ」
 すっかり元の“できる女”に戻った樹里ちゃんの姿に暗いところはない。
「やくそく、ですよ」
 まるで次回の呑みの約束を取り付けるような気軽さ。
「……ああ」
 おれはそれに、ただ頷くことしかできない。
「また、連絡しますから」
 樹里ちゃんはおれの頬にそっと触れ、瞳の奥を覗き込んでくる。
 ……まるで魔性だ。誰も逆らえない。

 

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「仕事が忙しいのは重々理解しているつもりですよ、でも泊まりになるならせめて電話のひとつやふたつ
 あったっていいんじゃないんですか? わたし心配で心配で夜も一時間おきぐらいに目を覚ましてしまって
 朝起きたときにも兄さんはいなくてさみしくて何かあったんじゃないかと思うと気が気じゃなくって
 パジャマ姿にサンダルで駅の近くまで行っちゃって変な目で見られてパートの間は携帯を触れるわけもなくて
 電池もいつの間にか切れちゃって何も手につかないから仕事でミスして店長に怒られて警察に電話しようか
 ずっと悩んでてでも変に騒ぎを大きくすると兄さんに迷惑が掛かるしカレーを温めなおしてたら焦がしちゃうし
 新聞の勧誘はしつこいしあんまり寂しいものだから自分で自分を慰めてて指じゃ全然足りなくてペンを使ったら
 キャップが中で外れて自分の股間を覗き込んで自己嫌悪して試行錯誤してるうちに何だか気持ちよくなってきちゃって
 何が言いたいかというと無事に帰ってきてくれてありがとう。本当にありがとう。好き。大好き。愛してます。
 世界中の誰よりも愛してます。だから捨てないで。ひとりにしないで! どこにもいかないでそばにいてッ! 
 ずっとわたしだけを見ていてくださいッ!」

「ごめんなさい」
 言ってることは支離滅裂で意味不明だが、ものすごく心配してくれているのはわかる。
 涙と鼻水を流しながら説教らしき長台詞をがなりたてる楓を見ていると良心が痛むが、
 “あれ”は不可抗力というか人道的観点からみた緊急避難措置であって、
「聞ィてるんですか兄さんッ!!」
「は、はいっ、聞いてますッ!!」
 俺は畳に直に正座し、楓は目の前に座布団を二枚重ねて同じように正座している。
 楓は感情が高ぶるとやたらと多弁になるが、今回は輪を掛けてひどい。
 午前様を通り越して無断外泊、ほぼ丸一日連絡を入れなかったとなればこの有様である。
 しかしまあ、楓のおれに対する精神的な依存は年々強まる一方だ。
 もはや病的なほどに。
 正直、重荷に感じないこともない。
 楓は在りかたとか精神性とか決定権とか、本来自分で持っていなければいけないものをおれに丸投げしている。
 それが楓の愛情表現だというなら、おれはそれを受け入れてやるしかない。
 ……そういう甘やかしが、ますます楓をスポイルしていることには気づいているけれど……
 
「……ふう。そういうわけですから、泊まりになるときは絶対に連絡してくださいね」
「委細了解しました、楓さん」
「……よろしい。わたしもちょっと言い過ぎました、ごめんなさい」
「……風呂、入ってきていいか?」
「そうですね、せっかくなので一緒に入りましょうか」 

「なあ、楓」
「なんでしょう」
「この狭い風呂にふたりは無理があると思うんだが」
 浴槽の隣に湯沸かし器がある、昔ながらのアレである。
 一度入ってみるとわかるが、これは狭い。ものすごく狭い。
 実家の風呂が広かっただけに、なおさらそう感じる。
「二人で一度に浴槽に入るのは無理そうですね」
 アルキメデスもエウレカでびっくりだ。
 
 湯船につかりながら、体を洗う楓の姿を眺める。
 無意識に樹里ちゃんの体のラインと比較している自分が嫌になる。
 ……また会ってくれますか、か。
 それってその、そういうことだよな。
 樹里ちゃんはいずれ、親の決めた相手と結婚しなくてはならないらしい。
 それが嫌で、それを一時的に忘れるためにおれに抱かれたんだとして、
 それをずっと続けていくのが良くないことなのは火を見るより明らかだ。
 安易な解決策はある。誰でも最初に思いつきそうなやりかただ。
 自惚れかもしれないが、樹里ちゃんの態度を見る限り、それを彼女自身も望んでいるように見える。
「……兄さん?」
「あ、ああ。どうした?」
「背中、流してあげようかと思ったんですが」
「すまん、頼むよ」
 嬉々としておれの背中をスポンジでこする楓。
 もしおれがその選択肢を選んだとしたら、楓は一体どうなってしまうのだろう。
 想像もつかない。
 いつかの包丁が頭をよぎる。……あながち笑い飛ばせる話でもない。
 
「ねえ、にいさん」
「うん……?」
「にいさんは、どこにもいかないよね?」
「……ああ」
 楓がおれの背中にぴったりと身を寄せてくる。
「……夢を見たの」
「夢?」
「にいさんが、いなくなる、ゆめ。子供のころから、ずっと見続けてきた。
 姿はどんどん小さくなって、いくら呼んでも、戻ってきてはくれない。
 完全に見えなくなって、気を失ってしまうところでいつも目がさめるの」
「……夢は、夢だ」
「そうなんだけどね」
 楓は力なく笑う。
「ねえ、にいさん……?」
「うん……?」
「にいさんの背中、大きいね……」
「男だからな」
「この背中に、ずっと守られてきたんだよね……
 いじめられてた時は、かばってくれた。 
 疲れたときは、おぶってくれた。
 眠れないときは、よくしがみついてた」
「そう、だったな」
 過去の記憶。
 おれは意識して楓の前を歩いていた。
 思いがけない障害で楓を泣かせないために。
 心無い人間の仕打ちから楓を守るために。
 楓の不安を、取り除くために。
「もう、にいさんなしじゃ、かえでは、むり、だから。
 ぜったい、むりだから。
 だから、ね」
「ああ……」
 こんなに弱々しい妹を放って、一体何ができるというのだろう。


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