わたしがまだ幼かったころの話。
初潮が始まる前から私は本が大好きで、
具体的にはクラスメイトとの恋の噂話より好きだった。
そのくせ、女性の主成分は砂糖とスパイスと素敵なものなんかじゃないとわかっている程度にはシニカルだった。
その程度のおつむ。成績は上位。
新たなことを知るのはとても楽しいことだったから、小説から料理の本、
果ては量子力学の本まで幅広く読んだ。理解はできなかったが。
お兄ちゃんはおろか、お母さんですら知らない言葉を知っているような子供だった。
わたしは自分からすすんで図書委員になり、昼休みと放課後は毎日のように図書館を開放し続けた。
教師たちはそれを過大評価していたが、お門違いもいいところだった。
誰のためでもない、自分のためだけにやっていたことだ。
単純に私は、知識の足りないクラスメイトとの雑談よりも、
饐えたような匂いのする本たちのほうが好きだった。ただそれだけの話だ。
その頃、わたしはハードカバーの日記帳を持っていた。
簡単だが鍵も掛かる本格的なもので、わたしはそれにいろいろなことを書き込んでいた。
日々思ったこと。
お兄ちゃんへの淡い想い。
面白かった、あるいはつまらなかった本の感想。
続きが気になったあのお話の、勝手な後日談。
自我が肥大気味だったわたしの、思考がそのまま溢れ出したような文章で日記帳は埋められていった。
ある日、いつものように図書館で小説もどきを書いていると、ひとりの女の子が現れた。
クラスメイトだった。
その子は本棚と本棚の間を縫うようにして歩き、うんうんと唸っている。
本の探し方を知らないらしい。恐らくは十進分類法などまったく知らないのだろう。
途方に暮れたらしい女の子はこちらに気づくと、にこりと微笑んで言った。
編み物の本って、どこにあるの?
それ以来、その子は度々図書館を訪れるようになり、私とも自然と言葉を交わすようになっていった。
聞くところによると、クラスに好きな男子がいて、
その子にクリスマスプレゼントとして手編みの手袋をプレゼントしたいらしかった。
明るく快活で、男子からも人気がありそうな子だったから、
そういういじらしい、彼女らにとって「クラい」行為に及ぶのは意外だった。
図書館の片隅で、教本とにらめっこしながら毛糸と格闘する様子が気にならなかったとは言わないが、
特別私を非難したり、攻撃したりするわけではなかったから気にしないことにした。
私は今までどおり、お兄ちゃんとの新婚生活を妄想したり、それを元に小説を書いたりしながら日々を過ごした。
そうして数日がたち、お互いに意識しないことに慣れてきた頃。
トイレから私が戻ってくると、その子が私の日記帳を手繰っているのに気がついた。
一瞬で頭に血が上り、ひったくるように奪って胸に抱えた。
見られた、見られた、見られた―――――――――――!?
わたしはとてもプライドの高い子供だったから、
自分の恥部を見られたことに対する羞恥心は並大抵ではなかった。
その子も悪気があってやったことではなかったのだろう、
……いつも何か書いているけど、あれはなんだろう?
その程度の軽い気持ちでやったことだったのだろう。
だからこそひどく狼狽し、崩れ落ちた私を抱きしめるようにして何度も謝ってくれた。
しばらくして、わたしも落ち着きを取り戻した頃、その子は目を輝かせながら言った。
見てしまったことは悪かった。
でも、こんなに面白いお話が書けるなんてすごい、将来は小説家になるの? と。
誰かに見せようと思って“もの”を書いたことはなかったから、
自分が書き連ねているこれが評価の対象になるなんて考えても居なかったから、
そういう視点があることに気づかないでいた。わたしは新鮮な驚きに身を震わせた。
他人と触れ合うことに苦痛を感じはじめていたわたしにとって、それは天啓にも等しかった。
こんなわたしでも、生きてゆける道があるかもしれない。
それから少し経って冬休みが始まり、
クリスマスと正月をお兄ちゃんとべったりで過ごして幸せの絶頂にあったわたしの背中を、
冷たいものが流れ落ちた。
件の日記帳を紛失してしまったのだ。
休みの間はほぼ毎日のように家で広げていたから、なくなったとすれば過去三日間に限定される。
幸い鍵はキーホルダーに纏めて管理していたから、誰かに中身を読まれてしまうことはないにしろ、
ずっと大切にしていたものだ。家の中はもちろん、学校中を虱潰しに探した。
図書館は現状、完全な私の管轄化にあると言ってよかったが、授業で使うことも皆無ではない。
たまたま置き忘れて、気づいた人間が本棚に紛れ込ませてしまっている可能性もあった。
その日記帳はとても装丁がしっかりしていて、一見伝奇小説のようにも見えるものだったから尚更だった。
棚という棚を探し回り、目を皿のようにして背表紙を舐めるように探し尽くしても見つからなかった。
その日わたしは泣きながら帰宅し、お兄ちゃんの胸に抱かれながら眠りについた。
それ以降もことあるごとに彼の姿を探し歩き、
とうとう卒業する前日になっても諦めきれずに図書館内部を探索していると、
久しぶりにあの子が図書館にやってきた。
時間がないことに焦り、泣きはらしながら幽鬼のように書架を漂うわたしを見るに耐えなかったのか、
その子も探索を手伝ってくれた。
それでもとうとう見つけることかなわず、宿直の先生に学校を追い出されてしまい、
わんわん泣きながら家路に着いた。
その夜もお兄ちゃんの布団で眠った。
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「えーと何々……? 『恋はいつだってとうとつだ』……?
うわ、くっせー! コイだってよコイ!
コイはトウトツにカム! カム! ラブイズカム! らーぶ! あいらびゅー!」
「『―――お兄ちゃんが誕生日におもちゃの指輪をくれた。
左手の薬指にはめたら、意味わかってるのか?って言って照れていた。
わかってなかったらやらないよ、お兄ちゃん。』 ……こいつやばくね?
兄弟でケッコンなんてできるわけないじゃん!」
「『……エリはいわゆる箱入りむすめというやつであったので、誰かがそばにいないことにたえる根気というやつがなかった。
好きあって結婚したケンイチの帰りがおそいと、外で別のおんなと会っているのではないかと気が気ではなかった。
しっとはみにくいと家族に言われ続けて育ったエリにとって、
みにくい気持ちとあせる気持ちの間で過ごす日中の時間はまさにジゴクというやつだった。』
……なんだこれ、小説か?」
紙細工でうっとおしいほど飾り立てられた教室。
わたしの日記帳は、
針金で乱暴に鍵穴をこじ開けられ、
ところどころ折れ曲がり、破け、
無遠慮な男子たちの手垢にまみれていた。
耐えられなかった。
わたしの存在や意味、それら全てを否定された気がした。
涙を堪えながらトイレに走り、洋式便器に噛り付くように嘔吐した。
胃の中のものを全部戻し、透明な胃液だけになってもえずきは止まらなかった。
内臓が全部ひっくり返って、口から出てきたら死ねるだろうか……
そんな思いに囚われながら私は卒業式を欠席し、トイレにずっと隠れて泣いていた。
卒業式は昼前に終わり、最後の言葉とともに解散になっても校内からは人の気配は一向になくならない。
どっと沸きあがる歓声、遠くから響く絶叫、集団で涙する女の子たち。
そんな中、私は個室の便器のふたに腰掛けながら声を殺して泣いていた。
世界はこんなにも残酷だ。自分は冷たい人間だと常々思っていた。そんなわたしですらこんなにもつらいのだ。
心優しい人間は、一体どれだけの艱難辛苦を超えてそこに居るのだろう?
それとも……そんな人間はどこにもいないのだろうか?
時間の感覚はすでにない。
扉の下の隙間からオレンジ色の光が差し込んでくる。
深い絶望の淵に居たわたしの意識を現世に引き戻したのは、入り口のドアの軋みと複数人の足音だった。
じっと息を殺す。
「……でも、あの日記。誰のだったんだろうね?」
「恥ずかしくて名乗り出られないでしょ。
そもそもあんな内容の日記を学校に持ってくること自体間違ってるよねー?」
「言えてるー。『恋はいつだって唐突だ』……だっけ? 恥ずかしっ。ラブリィ・ポエミィ・チャーミィって感じ?」
ぎゃはははは……
「卒業式だってのに、いきなり面白くない? てかネタじゃないの?
辛気臭くならないように誰かが一晩掛けて用意したんじゃないの?」
「でもさー、結構立派なやつだったじゃない。外国の映画に出てきそうな感じだったよ」
「それだけ気合が入ってたってことでしょ。誰だか知んないけど、いい仕事してたよ!」
「―――あれ、誰のか知ってるよ、あたし」
その声は。
「えー! ウソ、マジ!?」
「教えて、ねぇ教えて!!」
あろうことか。
「駄目、教えてあげらんない。でも、ネタじゃないよ。ある子がね、ずーっと本気で書いてたやつだよ」
「うわ……」
「まじ……?」
「てかね、あれ盗んだのあたしだもん。ちょっと可愛いからってさ、
『アテクシはアンタたちとは格が違うのよ〜』みたいな顔して。ムカついたからさ」
あの子の声、だった。
「……あのさー、それヤバくない?」
「別にヤバいことないでしょ。あたし引っ越すし」
「私立だって言ってたもんね……でも、男に振られた腹いせにしては酷くない?
「ふざけんじゃないわよ。あたしマジ本気でヒロセ君に告ったんだよ、
なのにヒロセ君はそいつのことが好きだって言うし!
マジ、トサカにきたね。あんなぶりっ子のどこがいいっていうのよ!!」
「ちょ、マキってば落ち着いて……」
「ま、社会正義ってやつ? 法で裁けない悪人を裁く正義の味方ってわけ。
これであの女に引っかかる男も少しは減ってくれると嬉しいんだけどー!!」
「マキの気持ち、私はわかるなー。何で男ってこう馬鹿なのかなって思うもん!」
「おにへー・はんかちょー!? いえーい!!」
あはは…
くすくすくす……
あっはっはっは……
ぎゃはははははははははは……
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どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
春先とはいえ、夜は冷える。誰も居ない校舎を暖房する理由はないから、
いずれ校内は外気と同じ温度まで下がるだろう。指先の感覚は最早ない。
卒業式が終わったら、すぐに家に帰るつもりだったから上着は持ってきていない。
だが、もうそんなことはどうでも良かった。
どうせ外に出たって、これから先を生きてゆける気がしなかった。
ここで凍死するのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、ぼおっと天井の通気口を眺めていると、入り口のドアが微かに音を立てた。
思わず息を止めている自分に気づき、内心苦笑する。
気配はそっと近づいてくる。
放っておいてくれればいい。
気配は扉一枚隔てた所で静止する。
貴女。あるいは貴方が気にしている扉は魔界への第一歩ですよ。
開けたって、きっと幸せにはなれません。
絶望の底に希望なんて残っていないことは、貴女も理解しているでしょう?
そんな風に皮肉りながらも、心のどこかで救いを求めている自分が居ることに気づく。
助けて……
赦して……
わたしを認めて……
数瞬の後、気配は口を開いた。
「楓……そこに居るのか?」
とっくに涙など枯れつくしてしまったと思った。
それなのに、あとからあとから溢れて止まらなかった。
……わたしはそのとき悟ったのだ。
本当に心の底からわたしを案じてくれるのは、お兄ちゃんだけだってことに。
その日からわたしの人生は、兄さんのためだけに存在するようになった。
だから、わたしは兄さんを愛し続ける。
たとえそれがいつの日か、歪んでしまったとしても。
……この気持ちを、未来永劫守っていかねばならないのだ。
[END]