見慣れない天井を見上げている。
こち、こち、こち……
聞き慣れた、兄さんの部屋の時計が時を刻む音、
小鳥のさえずり、遠くから聞こえてくる車のエンジンの音、
……そこまで意識が至った時点で、自分が目を覚ましていることに気がついた。
隣には最愛の兄。
いつものように、その胸に顔を埋める。
穏やかな吐息、優しい体温、
……兄さんの匂い。
あたたかな感覚ががわたしの中心から、体中の隅々までいきわたってゆく。
冷たい意識は押し流されて、代わりにただ幸せだけで満ちてゆく。
羊水の中心に回帰する感覚。
実感する。
私の帰ってくる場所は、ここだけだ。
誰にも赦されなかったわたしが生を実感できる、世界にただひとつだけの場所。
兄さんの隣。
もう離さない、渡さない。……それがたとえ、誰であっても。
それにしても昨夜は無茶をしたものだと自分でも思う。
泣いて止める両親を無理やり振り切り、勇んで電車に乗り込んだのが今から半日と少し前。
大家から鍵を借り(おばあさんだった、ちょっと安心)、部屋に入った瞬間にわかった。
たとえダンボールが散乱し、生活できる最低限度の道具しかなかったとしても、
そこは兄さんの部屋だった。わたしが愛している、兄さんの秘密基地だった。
ここでわたしと兄さんの二人きりの新しい生活が始まるのだ。
そう思うと、それだけで胸がはちきれそうだった。
……それにしても、包丁を持ち出したのは流石に冗談だったのだが、
兄さんが本気でおびえているように見えたのがちょっとショックだ。
わたしは兄さんの唇にそっと口付けると、そっと布団から這い出た。
外はまだ肌寒い。それでも、兄さんのためならつらくない。
パジャマの上にエプロンを羽織り、わたしは朝食の準備を始めた。
―――
味噌汁の匂いで目が覚めたのは初めてだった。
「おはよう、兄さん。朝ごはんが出来てますよ」
二つの茶碗。
二膳の箸。
二人分の朝飯。
ダンボール箱に部屋のほとんどを占領されている中、こたつを挟んで向かい合っている。
まるで昔からそうだったかのように、馴染んでいる朝の風景。
元々二人で居ることが多かった兄妹だから、二人で向かい合っているだけでもいい塩梅に落ち着く。
「ご飯、おかわりあるから。いっぱい食べてね」
とても幸せそうに甲斐甲斐しく俺の世話を焼いている楓と、
包丁まで持ち出した昨日の楓がどうしても重ならない。
色々なことが朝の回らない頭を駆け巡るが、
馬鹿みたいに嬉しそうな顔をする楓を見ていたら、なんだかどうでも良くなってしまった。
楓の作った朝飯は、宣言通りとても心のこもった優しい味だった。
ちょっと涙が出そうになった。
―――
「……先輩、本気で兄離れさせる気あるんですか?」
舌の根も乾かぬ昨日の今日でこれだから、呆れられても仕方がないだろう。
「……なくはない」
「鼻の下が伸びてますよ」
「え、うそ、まじ?」
「年端もいかない娘に求婚された父親の顔に見えます」
そんなに酷いのだろうか。うなだれる。
「楓さんが久しぶりに授業に出てきて、機嫌が妙にいいと思ったら案の定ですね」
「うう」
「先輩は楓さんのことよくブラコン、ブラコンって言いますけど、それを言ったら先輩もシスコンですよね」
「ううう」
「式はいつですか、シスコン」
できねえっつうの。
二人揃ってため息をひとつ。
「先輩」
「……なに?」
もう何を言われても気にならん。
「本当の本気で兄離れさせたいですか」
「そりゃあ……なあ」
「覇気がないですね」
「はい、あります、ありますとも」
「……それなら私に案があります」