「おれ、春から一人暮らしを始めようと思うんだ」
そう楓に伝えたのは、結局引越しの準備を始める直前だった。
言おう、言おうと思っても、気持ちばかりが空回りしてしまってうまくいかなかったとはいえ、
いよいよ切羽詰ってから伝えようとしたのがまずかったらしい。
座布団が飛んできた。
目覚まし時計が飛んできた。
真鍮のブックスタンドはクッションでガードした。
ペーパーナイフはさすがに止めた。
決して心身ともに丈夫ではない楓はそれっきり寝込んでしまい、見送っても貰えなかった。
(……自業自得だな)
でも、ものは考えようだ。兄貴に幻滅して喧嘩別れになったなら、逆に外に意識が向かうきっかけになるかもしれない。
と思ったが。
「兄さん、こんな時間までどこに行っていたんですか?」
何故か楓が部屋の中にいた。
「おまえ……何でここに、」
「……酷いですね兄さん。わたしは兄さんが一人暮らしをすることを認める、とは一言も言っていません」
「はあああ!?」
何でおまえの許可がいる? と言いかけてぐっと堪える。
ここで爆発させたらこいつの思う壺だ。思うさま暴れて、どさくさに紛れてここに居つく腹だろうがそうはいかない。
「あのな、見ての通りここはひとり部屋だ。お前の寝る場所はない」
正論でいこう。こいつも馬鹿じゃない。きちんと諭せば思い直すだろう。
「一緒に寝ればいいじゃないですか」
「ずっとこれから生活していくんだぞ、そういうわけにもいかんだろうが」
「兄さんの気に障るというのなら、キッチンに寝袋を敷いてそこで寝ます」
「ばか、そんなことさせられるわけないだろ」
「だったら是非一緒に寝てください」
「……学校はどうするんだ?」
「もちろんここから通います。近くなってむしろ便利じゃないですか」
墓穴を掘った。
「め、めしはどうするつもりだ」
「わたしが毎回作りますから心配要りません。兄さんのためにこころを込めますから楽しみにしていてくださいね」
にこり。
意識しないようにしていたが、こいつは実は凄く可愛い。
実の妹とわかっていても、ちょっとどきりとしてしまう。
そもそも、おれはこいつが嫌いというわけではないのだ。
こんな風に言われて嬉しくないわけがない。
嬉しくないわけではないのだが……
「でも、やっぱりまずいだろ……」
「何がですか?」
「いや、俺たちだって言ってみれば年頃の男女なわけで……」
傍から見て、女との同棲の言い訳が「妹」ってのは苦しすぎだと思う。
痛くない腹を探られるのはまっぴらだった。
「そもそも、どうやってここに入った? 実家に置いてきた合鍵か?」
楓はいともあっさりと、
「そんなの、大家さんに言って開けてもらったに決まってるじゃないですか」
こういうとき血の繋がりって便利ですね、なんて言いながら笑っている。
こ、このままでは逆に言いくるめられてしまうぞ……
やりたくはない。やりたくはなかったが、やむを得まい。
「なあ楓。おれも男だ。健康な成人男子なんだ」
「知っています」
「ならわかるだろう。男には独りになりたいときがあるんだ」
「そうかもしれないですね」
「な、そういうわけだから。ここはひとつ、兄貴にシングルライフを満喫させてくれまいか?」
これ、実はちょっと本気。楓が寝てる横でイタすわけにも行かないから、欲求不満な夜もあったりしたのだ。
「そうですね、その時はきちんと言っていただければわたしが処理させていただきます」
今度という今度は、かくーんと顎が落ちた。
「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?」
「別に恥ずかしがる必要はありません、自然なことですから。
変に溜め込んで、見境なしにその辺の女とされるよりはよっぽどいいです。
今は性病が怖いですからね」
「……おまえ、自分が何を言ってるか、本当にわかってるのか?」
「ええ、わかっていますよ」
ブラコンなんてものは時間が解決してくれると思っていた。。
だが、これはあきらかに異常だ。まともじゃない。
どこの世界に、実の兄貴のシモの面倒を見たがる妹がいるっていうんだ……!
「わかった、わかったよ。とりあえず今日のところは泊まっていけ。だからな、その、
とりあえず……ちゃぶ台の上の包丁をかたすところから始めてみないか?」