最悪の目覚め。
寝汗と涙で体中の水分が抜けきり、心臓が痛いほど高鳴っている。
手元の携帯で時刻を確認する。朝の6時。いつもの起床時間より都合一時間ほど早い。
この携帯は兄さんが大学入学祝いに買ってくれたものだ。
大学生にもなれば付き合いも増えて、家に連絡を入れることも増えるからと。
だが、メモリに記録されているのはごくごく僅かな連絡先だけだ。
家族と、大学の事務室と、ちょっとだけの「友達」と……
卵型のボディを胸の前で抱きすくめるようにして、喉の渇きを癒すために台所へと赴いた。
「おはよう、早いな」
リビングでは兄さんが頭を拭いていた。シャワーを浴びていたらしい。
スウェットの下に、引き締まった精悍な体を透視してしまい赤面する。
「……おはよう、兄さん」
「目が腫れぼったいぞ、夜更かしでもしたのか」
兄さんはいつだってやさしい。
「ううん、そういうわけじゃ、」
―――わたしのおなかには、もときさんのこどもがいるのよ。
どうして、
―――わたしのおなかには
今日の悪夢は、
―――わたしのおなかには、××××××××××××××。
「にいさん」
がっしりとした肩。いつもわたしを庇ってくれた、大好きなひとの背中。
子供の頃からずっと感じてきた、兄さんの匂い。あたたかさ。力強さ。
「やっぱりだめだよ、わたし、兄さんがいないと」
兄さんは、何も言ってはくれなかった。
きっと兄さんは、わたしを女として愛してはくれないだろう。
……それでも幸せだ。兄さんが、ここにいてくれさえすれば。
胸の痛みが和らいで、代わりに暖かな気持ちで一杯になっても、しばらくそのままでいた。
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「はあ、それはまた難儀なことでしたね」
「樹里ちゃん、本当にそう思ってる?」
ずるずる。
「何にせよ、念願の一人暮らしの開始、おめでとうございます。
お祝いですから今日は私のおごりでいいですよ」
おれの目の前でとんこつラーメンを啜っているのは森川樹里ちゃん。楓の数少ない友人だ。
髪はショートボブ、黒目がちなどんぐりまなこに薄い唇と、
黙っていればいいところのお嬢様で通りそうな雰囲気の美人だが、
感情をあまり表情に出さず訥々と喋るものだから、なんとも得体の知れないイキモノになっている。
たぶん類友だ。きっとそうだろうと思う。
「ありがとう。でも別に念願ってわけじゃないよ、必要になったから、」
「自宅生って大変って聞きますよ。
なまじ家族が家に居るものだから部屋に連れ込めないし、ホテル代も馬鹿になりませんしね」
「……君は一体何の話をしているんだろうね」
「冗談です」
にこりともせずに切り返す。本当につかみどころがない娘さんだ。
「楓さんはそれで?」
「もしかしたら、まだ寝込んでるかも」
「重症ですね。―――すいません、学生ライスおかわりお願いします」
「すいません、おれもお願いします。大盛りで。はい。―――いい加減あいつも兄離れさせないと」
「そういうことなのかなあ……?」
「どういうこと?」
樹里ちゃんは箸を止めて、一瞬逡巡する。
「……ただのブラコンにしては、度が過ぎてると思うんですが」
「だからこその兄離れだと、この愚兄は愚考する次第なんですがどうでしょう森川女史」
おかわりのライスが運ばれてくる。ここは安く、それなりにうまく、
学生はライスがおかわり自由ということで学内の連中には人気がある。
「がんばらない森川さん的には、最後のチャンスをうまいこと生かしたということで
残虐行為手当をあげてもいいですよ。おとうさん、ギョーザひとつ追加、お願いします」
店長はひとつ唸ると、厨房に引っ込んでいった。
「最後のチャンス?」
「ええ。先輩は二年後には就職ですか?」
「そのつもりだけど」
「勤務地はどちらに?」
「できれば東京か、その近辺がいいなって思ってるんだけど。
地元にずっと居るのもどうかと思うし」
「……引越し、慣れないサラリーマン稼業、不規則な生活。心身共に疲弊しきっているとき、
田舎からはるばるやってきて泣き喚く妹に優しくしてあげられますか?」
「なかなか厳しいね」
「そういうことです。かえるを茹で殺したいなら水から煮ないと」
「物騒だなあ」
「楓さんにとってはそういうことです。いずれ先輩は居なくなる。
だったらその苦しみを少しでも和らげてあげるのが兄貴の心遣いってものでしょう」
樹里ちゃんの住むアパートの前までやってきた。
「……何か元気出てきたよ、ありがとう」
「私でよければ話を聞きますから、またどこかにご飯食べに行きましょう」
「うん。ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい。……ところで先輩」
「?」
樹里ちゃんは玄関のドアから顔だけ出して、
「従兄弟同士は鴨の味って言いますけど、兄妹同士はもっと美味しいんですかね?」
最低だこのコ。