合鍵 第32回
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藍子の様子を、サキはドアの隙間から、息を殺して覗いていた。

藍子「さ、もとくん、ごはんのじかんだよ」
そう言って、藍子は人形にスープをすくったスプーンを運んでいた。
当然、スープはボタボタとこぼれ落ちる。
それを気にする様子も無く、藍子はスプーンを動かし続けた。

その人形には、首輪がつけられていた。

―――――――あの日、藍子がサキにいいまかされた日。
あの時、藍子はおかしくなってしまった。

日常生活では、そのことに気がつく人はいなかった。
藍子がおかしくなるのは、彼女が自分の部屋に戻り、ベッドの上にある、首輪をつけられている
人形に話し掛けるときだった。
その首輪をつけられた人形に藍子は愛を囁く。

藍子の部屋の中では、その首輪をつけられた人形は、元也だった。

藍子「さあ、もうお腹一杯になったでしょう?」
藍子はスープを脇にどけ、人形を抱きしめる。
そして、パジャマの上から、人形を体に押し付けた。
サキが覗いている事に気付いていない藍子は、パジャマをはだけ、下着の中に人形を
潜り込ませた。
他人から見れば、それは人形を使った、自慰に見えるだろう。
だが、藍子にとっては、元也と愛し合う行為だった。

――――あの日、サキは半ば強引に元也を新しく借りたアパートに連れて帰った。
ほとんどが拉致状態だった。
そして、二人で新しい学校に転校した。

新しい学校に行っても、最初の一ヶ月は、元也は憔悴しきっている状態だった。
あんな目にあっていたと言うのに、藍子がどうなっているかを心配し続けた。
2日に一回は、藍子の様子を見に行く、といって聞かなかった。
その度、サキがカッターを自分の手首にあて、押し留めた。

最大限の譲歩として、サキが藍子の親に電話で様子を尋ねる、と言ったものだった。
電話をして帰ってきた、藍子の母親からの返事は意外なものだった。

元也が転校した事の本当の事情を知らない彼女は、サキを元也の事も知っている藍子の
友達なのだろうと勘違いをし、詳しく話してくれた。
藍子の母親によると、彼女は現在、しっかりとした状態だと言う。
入院前後の不安定な時期が終わったようだと喜んでいた。
元也君がいなくなった事が、かえってショック療法になったのかもしれない、
そんな事を、嬉しそうに話した。
だが、気になる事がある、とも言われた。

藍子が部屋で、人形に“もとくん”と名づけてベットに置いてある。
それだけなら、まあ、寂しくてそんな事してるだけだろうと思えるが、おかしいのは
そのお人形に、首輪をつけてその紐をベットに括りつけている、との事だった。

サキはそれを聞くと、藍子の、あの時の笑い声を思い出した。
そして理解できた。
藍子にとって、その人形こそが、元也なのだろうと。
おそらく、おかしくなった藍子は、その人形を本気で元也と認識しているのだろう。

…よかったじゃない、藍子ちゃん。
その元也君は、あなたから絶対逃げ出す事は無いんだから。
藍子ちゃん、その元也君と、末永く、お幸せにね。
私はこっちの元也君と幸せになるから。

サキは、藍子の母親から聞いたことを、元也に話した。
人形の事を除いて。
元也は、藍子がもとに戻った事を聞き、ホッとした。
こうやって、サキさんに拉致られちゃったことが、かえって良かったね。
そういって、サキと一緒に笑った。

そこから、サキと元也の本当のスタートが始まった。

そして春休みになった。
その長期休暇を使い、元也は彼の両親がいるブラジルに遊びに行った。
父さん、母さんと一緒に帰ってくるから、そん時はサキさんのこと、紹介するから。
そう言って、元也はブラジルへと行った。

帰りの飛行機で、元也は死んだ。着陸の失敗だった。

春休みが終わり、ゴールデンウィークが過ぎても、サキは立ち直れなかった。
夏休みがはじまる直前あたりで、やっとサキは意識がしっかりしてきた。
その間の記憶が全く無かった。

そのまま夏休みに突入し、サキはあることを思い出した。
藍子は、このことを知っているのか?
引越しをし、元也が死んだ事を、転校前の知り合いに知らせる人はいなかった筈だ。

サキは藍子の家に向かった。
家に上げてもらい、藍子の部屋へと向かった。

藍子の部屋の前まで行き、ノックをしようとしたところで、部屋の中から藍子の声が聞こえた。
よくは聞こえなかったが、「もとくん…」と言う声がわずかに聞こえた。

息を飲み、ノックするのを止める。
そして、音をたてない様に、ドアをわずかに開けた。

部屋の中で、藍子が人形に食事を与えようとしていた。

サキが覗き続けていると、藍子は人形を使い、自慰をはじめた。
サキにはそれが、藍子にとっては元也との行為である事が分かった。

その行為をしている時の藍子の幸せそうな表情に怒りが溢れてきた。
私は元也君を失ったのに、あなたはまだ、元也君と一緒にいるの?
久しく忘れていた嫉妬が胸に溢れた。

サキは改めてノックをし、藍子の部屋に上がりこんだ。
部屋に入ってきたのがサキだと気が付くと、藍子は叫び声をあげた。
人形を胸に抱き、サキを罵り続けた。

そんな状態の藍子に、取り付く島も無かった。
元也が既に死んだといっても、藍子にとっては胸に抱いている人形こそが元也なのだ。
藍子に、サキの言ってる事が理解できるはずが無かった。

サキは藍子に元也の死を理解させる事を諦めざるを得なかった。

一階に降り、藍子の母親に挨拶を済ますと、サキは帰路についた。

帰りの電車でサキは考え続けた。
元也君を手に入れ、そして永遠に失った私。
もとくんを手に入れることは出来なかったが、代わりに永遠にもとくんをその手に置いておける藍子ちゃん。

私と彼女、どちらが幸せなのかしら?
どれほど考えても、その答えは出なかった。
それでも、偽りであるとは言え、元也と一緒にいれる藍子が、妬ましかった。
藍子に、狂おしいほど、嫉妬していた。


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