可奈がいないということもあってか久しぶりにSF研で放課後を過ごしていた。
カタンの開拓が一回終った辺りで時計を見る。そろそろ時間か。
「オレそろそろ帰りますんで」
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に帰ろうよ」
赤井先輩とはいつものやりとりだ。でも随分久しぶりな気がした。
帰ろうとしたら下駄箱で少々困っていた。
傘がない。きっちり自分の名前まで書いていたのに間違われるはずがない。誰かに盗られたのかもしれない。
おまけに外は雨が叩きつける轟音。冗談じゃない。
「ユウちゃん早く帰ろうよ」
「傘ないッス……」
「じゃあ、傘入れてあげよっか?」
「ああ、ありがとうございます」
いつも笑みを絶やさない顔が女神の笑顔に見えてきた。
「でも頼み方ってあるよねー。例えば『優しいアイお姉ちゃんお願いします。傘に入れてください』とか」
「へ?」
女神の笑顔が何か別のものに思えてきた。
「さあさあ、『優しくて綺麗なアイお姉ちゃんお願いします。傘に入れてください』」
「なんか形容詞が増えているんですけど……」
「『優しくて綺麗で大好きなアイお姉ちゃんお願いします。相合傘で一緒に帰ってください』」
人のツッコミを無視したまま形容詞は増えて、なんか一部変更されていた。
羞恥プレイか、これ?
外は土砂降りの雨。傘も持たずに出ようなんて思わない天気だ。
「や、優しくて――」
背に腹は変えられず人生初めての羞恥プレイに挑戦した。
雨の中一緒に肩を並べて歩く。並べて歩くというか既に肩はくっついている。
理屈で考えれば抱きつかれ慣れているので別に意識する必要はないのに何故か意識してしまう。
「ユウちゃん、もっと寄らなくちゃ濡れるよ。
でも、こうしているとねえ――」いつも笑っている顔が意味ありげに見えた。
「なんスか?」
――こうしてると恋人同士みたいだね。
先日可奈が言ってた言葉頭の中で再生される。少しだけ期待してみる。
「姉弟みたいだね」
――期待したオレが馬鹿でした。
期待を裏切られてちょっとだけガックリしつつ信号待ちをしていた所、思いっきり目の前を車が横切った。
避ける暇すらなく濡れ鼠と化していた。
「ついてないッスね、先輩」
そう言って先輩の方を見ると同じく濡れ鼠になっていて、透けて見えていた――その下着とか……
慌てて視線を前に戻す。
「私の家すぐそこだから、着替えれるよ」先輩はいつもと変わらない声だった。
気づいていないのか、男として全くみてくれていないのか――多分両方の気がした。
先輩の家は駅と学校の間にある。
そういえば家の前まで来たのは何度もあったが家に上がるのは初めてだ。
「はい、タオル。
ユウちゃん、着替えるよね。背格好同じぐらいだから、きっとヨウちゃんの服合うと思うよ」
ヨウちゃんって弟さんかな。そういえば余りそういうのは聞いたことない。
「いや、いいです。今日体育の授業あったから一応着替えはあります」
「えー、絶対似合うと思うのに」心底残念そうな声を出す。
人様の服を着るってのはどうも抵抗がある。自分の服を誰かが着るってのも抵抗がある。
「お茶ぐらいは飲んでいくでしょ?」
「ユウちゃん、紅茶よりコーヒーだよね」
「あ、はい」
コーヒー豆のいい匂いが漂ってくる。
そういえば今までインスタントと缶コーヒー以外ロクに飲んだことなかったんだよな。
でも、この匂いは結構好きになれそうだ。
「冷蔵庫にシュークリームあるけど……ユウちゃん甘ったるいの駄目だよね?」
「ええ、まあ」
「わらび餅用意しておけば良かったかなー。ユウちゃん好きでしょ?」
「そうですけど……」
確かにわらび餅は好きだけど、そんな事言ったことあったっけ?
甘ったるいのが駄目だとかコーヒー派だとかは言ったかもしれないが、わらび餅のことまで言った記憶は全くない。
というか今まで好物として人に喋った記憶すらない。
「ねえユウちゃん、私の弟になってよ」
いつの間にか自分の背後にまわってい先輩に抱きしめられていた。
後頭部に胸の感触がある。年頃の男の子なら気が気でないはずなのに不思議と落ち着いている。
慣れって怖い。
「イヤっス」
何度目かもう忘れかけた程繰り返したやり取りだ。
「んもう」少しだけ怒ったふりをする声がする。
今は顔が見えないが、いつもならこんな声をしていても笑っている。
「しかたないな、ユウちゃんは」
そう言った後、耳が少し生暖かくなって何か固いものがふれて――耳が甘噛みされてる。
「うわっ! 何するんですか?」
そのことに気づいたら思わず引いた。
「スキンシップ。姉弟ならするでしょ?」
先輩はいつもの笑顔だった。
「いや――しないでしょ、普通?」
「ユウちゃんのお姉さんとは仲良くないの?」
少し考え込んでみる。
姉とはあまり仲良くない。歳が離れすぎているので共通の話題が少なすぎる。
こっちがようやく小学校に上がったと思ったら向こうはとっくに中学で、
こっちが高校に上がったと思ったら既に働きに出ている。
しかし、抱きつきまでならともかく、耳の甘噛みとかはしないだろ、普通。
「ほら、私がお姉ちゃんになってあげるから、お姉ちゃんって呼んでよ」
「イヤっス」
条件反射で答えていた。
「はい、傘」
先輩は家を出ようとするオレに傘を渡してくれた。
これを忘れたらきっとまた戻らなきゃいけないという恥ずかしい目に会うのに忘れかけていた。
「じゃあ、また明日学校で」
外に出て傘を開いてみると柄の部分にマジックで赤井洋平と名が書かれていた。
ヨウちゃんって言ってたから弟さんのかな、多分。
しかしちゃんと借りてきたものとは言え、
人の名前が入っている傘を使うというのは何故か盗んできたもののようで少々使いづらかった。
雨の中、歩き出して気づいた――甘噛みされた耳がかゆい
* * *
「ユウちゃんってやっぱりヨウちゃんと似てるね。
ねえヨウちゃん、ひょっとしてお姉ちゃんにヤキモチ妬いてる?
駄目だよユウちゃんが弟になってくれたらヨウちゃんとは兄弟だもん。
兄弟喧嘩はお姉ちゃんが許さないからね」
* * *