最近、タカの元気がない。やはりあの女のせいだろうか。
強引にふり向かせたいとは思うけれど、あの女に負けるみたいでそれは嫌だった。
いや、そもそも。
私は既に勝っている。タカは私を選んだのだ。
その証拠に、タカは今も私の隣でぐっすりと寝ている。
男にしては綺麗な髪の毛を梳く。
愛しい。全てが愛しい。絶対に離さない。絶対に。
隆史に会いたい。
あれから一週間、麻妃は大学に来ていない。講義は無断欠席、レポートも出していなかった。
麻妃は今ごろどうしているだろうか。
そう思うたび、無責任な自分を殴りたくなる。
俺は幸せになるために、幸せになれると信じて、姉貴を選んだはずなのに。
あれは間違いだったのだろうか。
いや、違う。違うはずだ。俺は確かにあの時、姉貴と共にある未来に幸せを想っていた。
そう、間違いがあるとすれば。
きっと、麻妃と知り合ってしまったこと。
そして、麻妃を好きになってしまったこと。
俺は麻妃が好きで、そして姉貴が好きだ。その上で姉貴を選んだのだから、俺は、間違ってない。
間違っては、いない。
なのになぜ、麻妃は苦しんでいるのだろうか。
麻妃の気持ちが何なのか、薄々気付いてはいた。だから、そのせいにするのは容易い。
ただ、俺は、姉貴に告白されるまで自分の気持ちに気付いていなかった。
姉貴にキスされて初めて、麻妃を想って胸が痛んだ。
あの時にはもう手遅れだった。
そう考えれば原因は、己の愚鈍。
しかし、あそこで姉貴を断ることを想像するたび、自らの足場が崩れていくような不安が
起こる。もし気付いていたとしても、どうしたか分からない。
だからあの判断は間違ってはいない……のだろうか。
どちらにしろ、既に起こってしまったことだった。
時を戻すことなどできないし、丸く収めることもできそうにない。
せめて、麻妃に謝りたかった。
自分の重荷を下ろしたいからなのかも知れない。それでも、麻妃が救われるなら。
偽善だとしても救われるなら、それでいい。
今日、麻妃のアパートへ行ってみよう。二週間ぶりくらいだろうか。麻妃の様子が気になった。
「今更何の用があるのよ」
ドアを開けて一言目に、麻妃は言った。
思わず怯んでしまう。
「あ、その……謝ろうと」
麻妃の目がスッと細くなった。
「で?」
「ああ……その、麻妃には本当、悪い事したから……すまなかった」
言った途端、麻妃に胸ぐらを掴まれた。その瞳にゾクリとした。
「ふざけないで。なに、哀れんでるのよ。あんたのせいでこうなってるっていうのに、自分だけ楽なところにいて」
「そんなつもりは――」
「そういうつもりでしょ! 何が、すまなかったよ。何が、悪いことしたよ。全部アンタの自己満足じゃない。
それで、全部アンタが救われたいからじゃない! 私はあなたの為に生きてるんじゃない! これ以上私を使わないで、
私はあなたの道具じゃない……」
それを言ったきり、麻妃はぐったりと俺にしなだれかかってきた。両手に力はなく、弱々しく震えていた。
「……ってやる」
ぼそりと呟いた声色に背筋が寒くなった。と、急に麻妃は俺に抱き付き、部屋へ連れ込もうとする。俺は為す術もなくしたがった。
「ちょっと、待て、どうして」
久しぶりに入った部屋は薄暗く、どこか退廃的な雰囲気がしていた。アルコールの臭いが鼻を突く。
彼女は普段からウイスキーを好むが、見ればテーブルの上にはハーパーのボトルが数本置いてあった。
あれを一週間で飲んでしまったのだろうか。
「麻妃、待て」
「待たないよ! 待てない! 待ってたら、隆史はあっちへいっちゃうんだから!!」
涙声だった。
「この、バカッ!」
麻妃は叫んで、俺をベッドに引き倒した。
「ばかぁっ!!」
そして自身も倒れこんで、シャツを掴んで何度も何度もバカと繰り返す。
「すまない」
思わず抱き締めたくなったが、そんなことをすればまた彼女を傷つける。
何もできなかった。
「うるさい、バカ!!」
麻妃は、俺の胸に顔を埋めてわんわん泣き出してしまった。
「何で今更、もう顔なんて見せないでよバカ!」
「すまない」
「顔見たら、辛いじゃない!! それくらい察しなさいよこのバカ!」
「すまない」
「なんで……もう、私の前から消えてよ……ばか」
言われた。ここまで拒絶されたなら、もう文句はないだろう。麻妃への未練は断ち切れる。
なんだ、結局、俺は麻妃への未練があったからこの部屋へ来たのか。最低だな。
「……分かった」
もう去るべきだ。
覆い被さっている麻妃の方に手を添えて、そっと押し上げる。
麻妃の瞳が揺れた。
「あ……」
「すまなかった。本当に。もう、二度と麻妃と関わらない。大学では、顔を合わせるかも知れないが、関わらないようにする」
「あ、待って、たかしまってよ」
麻妃の虚ろな瞳がすがってきた。
「たかし……さみしいよ」
さっきの言葉とは逆に、麻妃はギュッと抱き付いてきた。
どうすればいいのか……。
さっきの言葉は本気だったと思う。しかし、今の麻妃の様子は一人にしておいたら死んでしまいそうに見えた。
「さみしいよ」
再びの言葉と共に、麻妃の顔が迫ってきた。
予想はできた。しかし、避けられなかった。
「たかし……」
そして、唇が触れ合った。
「麻妃……」
すき、と彼女は言った。
「なっ」
頬を染めたかと思うと、麻妃は俺の身体を抱き締め、弱々しく、しかし艶やかに微笑んだ。思わずくらっとした。
「落ち着け麻妃。こんなことして、後で後悔するぞ」
麻妃は首を振った。
「後悔……してもいい。このまま隆史を帰すよりはずっといい」
その瞳は泣きそうで、嬉しそうで、辛そうで、苦しそうで……どこか穏やかにも見えた。
「待て、麻妃。待ってくれ」
何としても、思い留まらせなければ。これ以上彼女を傷つければ、取り返しのつかないことになる。
「麻妃、俺は……その、姉貴と」
麻妃は微笑んだ。
「分かってる。いいの」
「俺は、きっと麻妃を選べない。それでもいいのか……」
ふっとその瞳に影がよぎり、麻妃は俺を見た。
「いい。私は、あなたのことを」
その瞬間の麻妃は、まるで聖母のようだった。
「だいすきなのだから」